パリス・ヒルトン、MotoGP 125ccクラスのチーム結成
2010年12月23日

ホテルチェーン、ヒルトン・ホテルの創業者一族の令嬢として、モデル、デザイナー、女優、歌手、作家と多岐にわたって活躍するパリス・ヒルトンは、現在パリス自身がスペインのイビサ島を中心にプロデュースするインターナショナルパーティーのワールドツアー、スーパーマルトセ・VIPのプロモーションを展開。
ドゥカティ、メルセデス・ベンツAMGとスポンサー契約
2010年11月21日

ドゥカティとAMGの最初の協力関係は、スポンサーとマーケティング活動となり、AMGは、2011年からドゥカティ・チームのオフィシャルカーとしてサポートする。
さらに、AMGが選択するイベントにおいて、ドゥカティのオフィシャルライダーたちやドゥカティの顧客に、AMGを走らせる機会を提供するなど、今後戦略的な活動を展開していく。
バレンティーノ・ロッシ、ドゥカティのMotoGPマシンで初走行
2010年11月10日

最終戦バレンシアGPを終えてから2日後、バレンティーノ・ロッシはリカルド・トルモに延滞。今年の12月31日まで契約があるヤマハ発動機からの許可を得て、今年最後のテストに参加。
テストライダーのフランコ・バッタイーニが、挙動を確認した後、ロッシは12時24分にソフトタイヤを装着したデスモセディチGP11でコースイン。7ラップを走行した。
ホルヘ・ロレンソ、MotoGPクラスで初タイトルを獲得
2010年10月10日

今季6度目のポールポジションからスタートしたロレンソは、決勝を3位でフィニッシュ。3戦ぶり13度目の表彰台を獲得し、3戦を残して、最高峰MotoGPクラスの2010年のワールドチャンピオンに輝いた。
「最高峰クラスでの初タイトル。夢が現実となった!」とホルヘ・ロレンソは語る。
Moto2クラス、富沢祥也のゼッケン48を欠番に
2010年9月18日

エントリーした全ライダーたちは、富沢祥也のゼッケンだった48のステッカーをマシンに貼って、第13戦アラゴンGPのフリー走行1に登場。各ライダーたちが、それぞれの形で、富沢の死去を偲んだ。
富沢祥也さん通夜 ・・・ AKB48 板野友美ら供花
2010年9月14日

祭壇には笑顔の遺影とともにライダースーツ、ヘルメットなどの遺品が飾られ、バレンティーノ・ロッシや親交のあったV6の長野博、日本GPで富沢選手のグリッドガールを務める予定だったAKB48の板野友美らからの多くの供花で埋め尽くされた。
MotoGPライダー、富沢祥也選手に哀悼の意
2010年9月7日

バレンティーノ・ロッシ
「こんなに悲しいことが起きてしまうと、全てがゼロになってしまう。リザルトは重要ではない。本当に残念だ。彼は非常にストロングなライダーだったけど、何よりもすごく好感で、いつも笑顔だった。まだ若く、この先グレートなキャリアが控えていた。すごく悲しい」
ホンダ、富沢祥也選手に哀悼の意
2010年9月6日

ロードレース世界選手権(WGP)Moto2 クラスに参戦するTechnomag-CIP チームの富沢祥也選手(19歳)は、2010 年9月5日(日)に開催された第12 戦サンマリノグランプリ Moto2 クラス決勝レース走行中の12 周目、11 コーナーで転倒。頭部、胸部、腹部を負傷し、サーキット内のメディカルセンターで人工呼吸などの処置を受けた後、2 名の医師とともにサーキットからリッチョーネ市内の病院に搬送されました。病院では緊急処置が施されたものの、同日(9月5日)午後2時2 分、逝去されました。
バレンティーノ・ロッシ 「ヤマハでの仕事は終わった」
2010年8月18日

「基本的に、僕のヤマハにおける仕事は終了したと思う。状況は2004年から大きく変わり、今M1はMotoGPのベストマシンだ」と、移籍決定後、初めてその理由を説明。
「ヤマハは、ファンタスティックなヤングライダーを起用するから、チームにとって、僕はもう必要ないようだ」