F1特集:ラルフ・シューマッハ 歴代F1マシン
ラルフ・シューマッハのF1キャリアを歴代F1マシンとともに振り返る。
7回のF1ワールドチャンピオンであるミハエル・シューマッハの実弟であるラルフ・シューマッハは、1997年にジョーダンでF1デビュー。その後、ウィリアムズ、トヨタでF1を戦い、182戦で6勝、27回の表彰台を獲得。2004年のF1日本GPでは兄弟での1-2フィニッシュを達成している。
ジョーダン 197(1997年)
ミハエル・シューマッハと同じく、ジョーダンからF1デビュー。第3戦アルゼンチンGPで3位フィニッシュし、F1参戦からわずか3戦目で表彰台に上ったが、速さを見せつけた、チームメイトのジャンカルロ・フィジケラと絡んでリタイアに追いやるなど荒っぽいドライブも目立ち、17戦中10戦でリタイアを喫した。13ポイントを挙げ、ランキング11位でデビューシーズンを終えた。
ジョーダン 198(1998年)
速さを見せる一方で、荒さは相変わらずであったが濡れた路面に対しての高い対応力を見せた。第13戦ベルギーGPでは、スパ・フランコルシャン特有の雨により荒れたレース展開となる中2位でフィニッシュした。チームメイトのデイモン・ヒルがジョーダンにF1初優勝をもたらした記念すべきレースに1-2フィニッシュという形で華を添えた。続く第14戦イタリアGPでも連続表彰台となる3位を獲得した。このレース後に、1999年からウィリアムズと2年契約を結んだことを発表。最終的に14ポイントを挙げ、ランキング10位でシーズンを終えた。
関連:F1デバイス列伝:ティレルが導入した“Xウイング”
ウィリアムズ FW21(1999年)
ウィリアムズに移籍。チームメイトは2年連続のCARTチャンピオンのアレックス・ザナルディ。だが、ウィリアムズ FW21は戦闘力に欠け、ザナルディは0ポイントでシーズンを終了。一方、ラルフ・シューマッハは3度表彰台に上り、第13戦イタリアGPでは自身初となるファステストラップも記録した。波乱の多いレースとなったヨーロッパGPでは非力なスーパーテックエンジン搭載車であったが、マクラーレン・メルセデスを抜くなど一時はトップを走る奮闘を見せたが、右リアタイヤのパンクにより4位入賞。35ポイントを挙げ、ランキング6位。
ウィリアムズ FW22(2000年)
ウィリアムズはBMWエンジンを獲得。ジェンソン・バトンをチームメイトに迎えた。開幕戦オーストラリアGPで3位表彰台と上々の滑り出しをみせるが、結局未勝利に終わった。第3戦サンマリノGPでは燃料システムのトラブルに見舞われ、第6戦ヨーロッパGPではエディ・アーバイン、ヨス・フェルスタッペンと接触しリタイアした。特に第7戦モナコGPではクラッシュによりふくらはぎに裂傷を負った。さらに第8戦カナダGPではジャック・ヴィルヌーブに衝突されるなど、マシントラブルとアクシデントにより7回のリタイアを喫した。24ポイントの獲得にとどまるも、ランキング5位。
ウィリアムズ FW23(2001年)
CART史上最年少チャンピオンであるファン・パブロ・モントーヤをチームメイトに迎える。第4戦サンマリノGPでは、予選3位からスタートして参戦5年目でF1初勝利を挙げた。母国ドイツGPでも勝利し、この年は最終的に3勝を挙げ49ポイントを獲得し、ランキング4位でシーズンを終えた。
ウィリアムズ FW24(2002年)
開幕からフェラーリが圧倒的な戦力を見せつけシーズンを席巻。ウィリアムズ勢は大苦戦の一年となった。序盤の第2戦マレーシアGPで同年チーム唯一となる勝利を挙げたが、50ポイントを獲得したチームメイトのモントーヤに獲得ポイントで上回られ、ポイントは42ポイント、ランキング4位でシーズンを終えた。
ウィリアムズ FW25(2003年)
2勝を挙げ、チームもコンストラクターズタイトルに手が届きそうであったが、僅差でフェラーリに敗れた。自身は自己最多の58ポイントを獲得したもののランキングでは5位に終わった。モントーヤは9度の表彰台で82ポイントと、チームメイトに対し大きく遅れをとった。ームメイトのモントーヤを過剰に意識するあまり、レース中に同士討ちすることがあった。
ウィリアムズ FW26(2004年)
“セイウチノーズ”が特徴的なウィリアムズFW26は、フェラーリだけでなくB・A・Rやルノー勢に対しても苦戦を強いられた。第8戦カナダGPではポールポジションを獲得し、2位フィニッシュしたが、マシンのブレーキダクトの規定違反により失格となった。ラルフ・シューマッハは第9戦アメリカGP決勝で、高速の最終コーナーでクラッシュし背骨を負傷、6戦欠場を余儀なくされ、結局未勝利に終わった。日本GPでは兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフは2位となり、結果的に最後となるシューマッハ兄弟での1-2フィニッシュとなった。シーズン中に翌年からのトヨタ移籍が発表され、6年間在籍したウィリアムズからの離脱が決まった。
関連:F1マシン列伝:ウィリアムズ FW26 没落を招いた“セイウチノーズ”
トヨタ TF105(2005年)
第2戦マレーシアGPで5位フィニッシュし、トヨタ移籍後の初入賞。第9戦アメリカGPでは、フリー走行2回目でミシュランタイヤの問題から前年と同じ最終コーナーでスピンを喫し、予選と決勝を欠場した。コンスタントに入賞を記録し、ハンガリーGPで移籍後初となる3位表彰台を獲得。また日本GPでポールポジション、中国GPで3位表彰台を獲得するなど終盤戦でも活躍した。45ポイントを獲得し、43ポイントを獲得したチームメイトのヤルノ・トゥルーリをドライバーズランキングで上回った。
トヨタ TF106(2006年)
トヨタは前年までのミシュランタイヤからブリヂストンタイヤに変更し、序盤は対応に苦労した。第3戦オーストラリアGPではミハエルのクラッシュ、後続から迫っていたモントーヤのトラブルにも助けられ、チームにとっても自身にとってもシーズン唯一の3位表彰台を獲得。中盤~終盤にかけて、マシンパフォーマンスは向上するが信頼性が伴わず、シーズン全体では18戦中7度のリタイアを喫した。この年は20ポイントを獲得しランキング10位となった。
トヨタ TF107(2007年)
マクラーレンとフェラーリが他チームを圧倒し、その後にBMWザウバーがつけるという構図がシーズンを通して一貫していた。その中でトヨタは、入賞枠をルノー、ウィリアムズ、レッドブルらと奪い合う年となった。チームメイトのトゥルーリは、予選では常にその集団から抜けだしQ3に進出する一方で、シューマッハはシーズンを通して予選で中団から後方に沈むことが多かった。ハンガリーGPではこの年最高の6位入賞を果たし復調の兆しを見せたが、結局入賞はこれを含めて3回のみに留まり、日本GP終了後の10月1日、2007年シーズン限りでのトヨタチーム離脱を発表した。
カテゴリー: F1 / ラルフ・シューマッハ / F1マシン
7回のF1ワールドチャンピオンであるミハエル・シューマッハの実弟であるラルフ・シューマッハは、1997年にジョーダンでF1デビュー。その後、ウィリアムズ、トヨタでF1を戦い、182戦で6勝、27回の表彰台を獲得。2004年のF1日本GPでは兄弟での1-2フィニッシュを達成している。
ジョーダン 197(1997年)
ミハエル・シューマッハと同じく、ジョーダンからF1デビュー。第3戦アルゼンチンGPで3位フィニッシュし、F1参戦からわずか3戦目で表彰台に上ったが、速さを見せつけた、チームメイトのジャンカルロ・フィジケラと絡んでリタイアに追いやるなど荒っぽいドライブも目立ち、17戦中10戦でリタイアを喫した。13ポイントを挙げ、ランキング11位でデビューシーズンを終えた。
ジョーダン 198(1998年)
速さを見せる一方で、荒さは相変わらずであったが濡れた路面に対しての高い対応力を見せた。第13戦ベルギーGPでは、スパ・フランコルシャン特有の雨により荒れたレース展開となる中2位でフィニッシュした。チームメイトのデイモン・ヒルがジョーダンにF1初優勝をもたらした記念すべきレースに1-2フィニッシュという形で華を添えた。続く第14戦イタリアGPでも連続表彰台となる3位を獲得した。このレース後に、1999年からウィリアムズと2年契約を結んだことを発表。最終的に14ポイントを挙げ、ランキング10位でシーズンを終えた。
関連:F1デバイス列伝:ティレルが導入した“Xウイング”
ウィリアムズ FW21(1999年)
ウィリアムズに移籍。チームメイトは2年連続のCARTチャンピオンのアレックス・ザナルディ。だが、ウィリアムズ FW21は戦闘力に欠け、ザナルディは0ポイントでシーズンを終了。一方、ラルフ・シューマッハは3度表彰台に上り、第13戦イタリアGPでは自身初となるファステストラップも記録した。波乱の多いレースとなったヨーロッパGPでは非力なスーパーテックエンジン搭載車であったが、マクラーレン・メルセデスを抜くなど一時はトップを走る奮闘を見せたが、右リアタイヤのパンクにより4位入賞。35ポイントを挙げ、ランキング6位。
ウィリアムズ FW22(2000年)
ウィリアムズはBMWエンジンを獲得。ジェンソン・バトンをチームメイトに迎えた。開幕戦オーストラリアGPで3位表彰台と上々の滑り出しをみせるが、結局未勝利に終わった。第3戦サンマリノGPでは燃料システムのトラブルに見舞われ、第6戦ヨーロッパGPではエディ・アーバイン、ヨス・フェルスタッペンと接触しリタイアした。特に第7戦モナコGPではクラッシュによりふくらはぎに裂傷を負った。さらに第8戦カナダGPではジャック・ヴィルヌーブに衝突されるなど、マシントラブルとアクシデントにより7回のリタイアを喫した。24ポイントの獲得にとどまるも、ランキング5位。
ウィリアムズ FW23(2001年)
CART史上最年少チャンピオンであるファン・パブロ・モントーヤをチームメイトに迎える。第4戦サンマリノGPでは、予選3位からスタートして参戦5年目でF1初勝利を挙げた。母国ドイツGPでも勝利し、この年は最終的に3勝を挙げ49ポイントを獲得し、ランキング4位でシーズンを終えた。
ウィリアムズ FW24(2002年)
開幕からフェラーリが圧倒的な戦力を見せつけシーズンを席巻。ウィリアムズ勢は大苦戦の一年となった。序盤の第2戦マレーシアGPで同年チーム唯一となる勝利を挙げたが、50ポイントを獲得したチームメイトのモントーヤに獲得ポイントで上回られ、ポイントは42ポイント、ランキング4位でシーズンを終えた。
ウィリアムズ FW25(2003年)
2勝を挙げ、チームもコンストラクターズタイトルに手が届きそうであったが、僅差でフェラーリに敗れた。自身は自己最多の58ポイントを獲得したもののランキングでは5位に終わった。モントーヤは9度の表彰台で82ポイントと、チームメイトに対し大きく遅れをとった。ームメイトのモントーヤを過剰に意識するあまり、レース中に同士討ちすることがあった。
ウィリアムズ FW26(2004年)
“セイウチノーズ”が特徴的なウィリアムズFW26は、フェラーリだけでなくB・A・Rやルノー勢に対しても苦戦を強いられた。第8戦カナダGPではポールポジションを獲得し、2位フィニッシュしたが、マシンのブレーキダクトの規定違反により失格となった。ラルフ・シューマッハは第9戦アメリカGP決勝で、高速の最終コーナーでクラッシュし背骨を負傷、6戦欠場を余儀なくされ、結局未勝利に終わった。日本GPでは兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフは2位となり、結果的に最後となるシューマッハ兄弟での1-2フィニッシュとなった。シーズン中に翌年からのトヨタ移籍が発表され、6年間在籍したウィリアムズからの離脱が決まった。
関連:F1マシン列伝:ウィリアムズ FW26 没落を招いた“セイウチノーズ”
トヨタ TF105(2005年)
第2戦マレーシアGPで5位フィニッシュし、トヨタ移籍後の初入賞。第9戦アメリカGPでは、フリー走行2回目でミシュランタイヤの問題から前年と同じ最終コーナーでスピンを喫し、予選と決勝を欠場した。コンスタントに入賞を記録し、ハンガリーGPで移籍後初となる3位表彰台を獲得。また日本GPでポールポジション、中国GPで3位表彰台を獲得するなど終盤戦でも活躍した。45ポイントを獲得し、43ポイントを獲得したチームメイトのヤルノ・トゥルーリをドライバーズランキングで上回った。
トヨタ TF106(2006年)
トヨタは前年までのミシュランタイヤからブリヂストンタイヤに変更し、序盤は対応に苦労した。第3戦オーストラリアGPではミハエルのクラッシュ、後続から迫っていたモントーヤのトラブルにも助けられ、チームにとっても自身にとってもシーズン唯一の3位表彰台を獲得。中盤~終盤にかけて、マシンパフォーマンスは向上するが信頼性が伴わず、シーズン全体では18戦中7度のリタイアを喫した。この年は20ポイントを獲得しランキング10位となった。
トヨタ TF107(2007年)
マクラーレンとフェラーリが他チームを圧倒し、その後にBMWザウバーがつけるという構図がシーズンを通して一貫していた。その中でトヨタは、入賞枠をルノー、ウィリアムズ、レッドブルらと奪い合う年となった。チームメイトのトゥルーリは、予選では常にその集団から抜けだしQ3に進出する一方で、シューマッハはシーズンを通して予選で中団から後方に沈むことが多かった。ハンガリーGPではこの年最高の6位入賞を果たし復調の兆しを見せたが、結局入賞はこれを含めて3回のみに留まり、日本GP終了後の10月1日、2007年シーズン限りでのトヨタチーム離脱を発表した。
カテゴリー: F1 / ラルフ・シューマッハ / F1マシン