鈴鹿で野宿した少年がF1へ メルセデス日本人エンジニア桑原克英の軌跡
ジョージ・ラッセルのパフォーマンスエンジニアを務める桑原克英は、2026年F1日本GPを迎える鈴鹿で、かつて16歳の少年としてグランドスタンドの下に段ボールを敷いて一夜を明かした思い出を振り返った。

いまではメルセデスの一員としてF1パドックに立つ桑原克英だが、その道のりは日本の学生フォーミュラ、スーパーGT、トヨタの耐久レース活動、そして欧州転身を経て築かれたものだった。鈴鹿は、そんなキャリアの原点と現在をつなぐ特別な場所となっている。

16歳の鈴鹿で過ごした忘れられない一夜
2005年の日本GP。予選を終えたファンが日曜の決勝を楽しみにサーキットを後にするなか、16歳だった桑原克英には帰るつもりがなかった。

「ホテルのような宿泊先を取るお金があまりなかったんです」と桑原克英は振り返った。

「だから土曜の朝に現地へ行って、第1コーナーのグランドスタンドの下で段ボールの上に寝て、そのまま一晩過ごしたんです」

「16歳で体力が無限にあるような時期なら気にならないんです。そうしていたのは僕だけじゃなかったので、別に平気でした」

その翌日、桑原克英は当時を代表する名勝負のひとつをはっきりと見届けた。キミ・ライコネンが17番グリッドから追い上げ、最終ラップで首位を奪って優勝した2005年日本GPだった。

2026年はメルセデスの一員として鈴鹿へ
2026年、桑原克英は再び日本に戻ってくる。ただし、グランプリを見るために鈴鹿で夜を明かす必要は、もうない。

「2024年の日本GPは、ジョージと本格的に仕事をするようになった初期のレースのひとつでした。2023年にも何戦か一緒に仕事をしていました。2024年のイモラから、彼のガレージ側でフルタイムで働くようになりました」

日本GPは1980年代からF1カレンダーの常連だが、日本人が継続的にパドックで存在感を示してきたわけではない。桑原克英は、その状況を少しずつ変えつつある存在だ。

「世界のこちら側で生まれると簡単じゃないんです。チャンスはかなり限られています」と桑原克英は語った。

「僕は26歳になるまで海外に出たことすらなかったので、乗り越えなければならない壁がたくさんありました」

横浜の大学で始まったモータースポーツ人生
さらに時間をさかのぼると、桑原克英のモータースポーツへの道は横浜の大学時代に本格化した。

「出発点はフォーミュラ・スチューデントでした。あれによって、レーシングカーを作って走らせるには何が必要なのかを知ることができました。いろいろな意味で、あれが自分のプロとしてのキャリアの始まりだったと思っています」

当時の桑原克英にとってF1はまだ遠い存在だったが、日本国内には進むべき選択肢がいくつもあった。

「幸運にも、トヨタのスーパーGTプログラムの一員として仕事を得ることができました。本当にうれしかったです」

現場を拠点とした桑原克英の仕事は信頼性に重点を置くもので、フォーミュラ・スチューデント時代に学んだことを実践しながら、業界のなかで成長を続けていった。

そして日本各地を回り、F1日本GP開催経験のある3つのサーキットも訪れた。富士、TI英田(現・岡山)、そしてもちろん鈴鹿だった。

欧州行きで開けた新たな道
やがて、欧州から声がかかった。

「2015年に向けて、当時のトヨタの耐久レースプログラムに関わるため、マネージャーが僕をヨーロッパへ行かせることに決めてくれました」と桑原克英は語る。

「それはF1以外のキャリアのなかで、自分にとって最大のステップでした。ヨーロッパで現場の人たちがどう働いているのかを見ることができました」

「当時、そのシリーズはかつてないほど強力で、LMP1にはポルシェ、トヨタ、アウディ、日産といった大きな名前が参戦していました」

まだF1ではなかったが、グリッドにはF1との強い結びつきがあった。パフォーマンスエンジニアとなっていた桑原克英は、その中心にいた。

「セバスチャン・ブエミ、中嶋一貴、そしてフェルナンド・アロンソもそのプログラムに関わっていました。僕は彼らとも仕事をすることができました」

レーシングポイントを経てメルセデスへ
こうしてF1とのつながりは確かなものとなり、次の一歩を踏み出す時が来た。

ドイツからイギリスへ。そしてトヨタからレーシングポイントへ。最初にF1を夢見てから20年、桑原克英はついにその舞台へたどり着いた。

「2020年にはシミュレーターテストエンジニアでした。そこに3年間いて、そのあとメルセデスで働くために応募しました。アンドリュー・ショブリンとリキ・ムスコーニからオファーをもらえたのは本当に幸運でした」

こうして桑原克英はF1パドックにしっかりと根を下ろした。そこにはハースF1チームの小松礼雄、そしてレッドブル・レーシングの角田裕毅といった日本人の姿もある。

メルセデスAMG・ペトロナス・モータースポーツ 桑原克英

次の世代へのメッセージ
では、モータースポーツの仕事を目指す次世代の日本のファンに、どんな助言を送るのか。

「自分には絶対に無理だとずっと思っていました。でも、このスポーツを心から愛していて、その方向をしっかり見ていれば、チャンスはあります」と桑原克英は語った。

「最初の仕事からF1に飛び込む必要はありません。そこに至るまでの道を積み上げていけばいいんです。特に日本には素晴らしいレースカテゴリーがたくさんありますから」

「目標に集中し続ければ、実現する可能性はあります」

鈴鹿は原点であり、特別な場所
桑原克英の物語は、多くのF1関係者と同じように、ひとつの円を描くように原点へ戻ってきた。2013年に初めて鈴鹿を訪れた彼は、2026年にはジョージ・ラッセルのパフォーマンスエンジニアとしてその場所に立つ。

鈴鹿は、さまざまな意味で特別なサーキットだ。

「もちろん僕はひいき目があります。でもF1に入るまでは、チームやドライバーが外向きに鈴鹿について語ることが、本当にその通りの気持ちだとは分かっていませんでした」と桑原克英は語った。

「誰もが、最高のサーキットで最高のファンがいると言いますし、周りの人たちと話してみても、本当にその通りのようです」

「高速で流れるようなコーナーが続くレイアウトは、ドライブするうえでも本当に魅力的です」

「それに歴史を見ても、あそこで多くの記憶に残るタイトル決定の瞬間が生まれてきました」

「いまは桜の季節に開催が移って、見た目には本当に素晴らしいです。ただ、個人的には少し寂しいところもあります。僕の誕生日は10月13日で、以前はちょうどその頃にレースが行われていたので」

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カテゴリー: F1 / メルセデスF1 / F1日本GP