ザウバーF1 30年の軌跡 歴史を彩った名場面と象徴的リバリー
アウディとして新たな章を開く準備を進めるザウバー。その前に、30年にわたるF1参戦の歴史の中で生まれた、節目となるリザルトや画期的な勝利、そしてファンに愛された印象的なリバリーの数々を振り返る。

1993年にF1グリッドへ参戦して以来、ザウバーは複数の時代を通じて常に存在感を放ち続けてきた。表彰台獲得やジャイアントキリング、象徴的なドライバーラインアップ、そして個性的なペイントワークまで、ヒンウィルを拠点とするこのチームは、F1という舞台に確かな足跡を残してきた。

創設者ペーター・ザウバーは、ザウバー時代最後のレースとなったアブダビGPのパドックに姿を見せ、ニコ・ヒュルケンベルグとガブリエル・ボルトレトが、キック・ザウバーの2台を最後にチェッカーまで運んだ。2026年からアウディへと生まれ変わる今こそ、ザウバーのF1での歩みを彩った、最も記憶に残る瞬間とルックスを祝う時だ。

1993年 チャンピオンシップ初参戦
ザウバーの名は、1993年3月のシーズン開幕戦南アフリカGPで、ザウバーC12とともにF1に鮮烈なデビューを果たした。他カテゴリーでの成功を経て参戦したスイスのチームは、トップレベルでも通用する存在であることを、すぐに示してみせた。

トラック上では、JJ・レートが印象的なデビューパフォーマンスを披露し、キャラミで5位に入ると、続くイモラでは4位を獲得。この結果は、ザウバーを一気にライバルたちの中で認知させ、確立された強豪と渡り合えるチームの登場を告げるものだった。

一方で、C12はその見た目でも強烈な存在感を放っていた。広告を最小限に抑えた大胆なブラックリバリーは、当時のグリッドの中でも際立っており、1990年代を代表する最も特徴的なデザインのひとつとして、瞬く間に語り草となった。

ザウバー F1 1993年カール・ヴェンドリンガーとJJ・レートは、1993年のデビューシーズンで、ザウバーをコンストラクターズランキング7位へ導いた。

1995年 初の表彰台
F1参戦から3シーズンを待たずして、ザウバーは1995年イタリアGPで大きなブレイクスルーを果たす。ハインツ=ハラルド・フレンツェンが10番手スタートから3位まで順位を上げ、14台がリタイアする展開を巧みに生かして、自身とザウバーにとって初の表彰台を獲得した。

このシーズンをさらに印象深いものにしたのが、レッドブルとのパートナーシップだ。後にF1参戦を果たす以前のレッドブルとの協力関係により、白と青を基調とした、ひと目でそれと分かるリバリーが誕生した。このカラーリングでの表彰台獲得は、レッドブルにとっても重要な節目であり、モータースポーツプロジェクト初期の象徴的成果のひとつとなった。

ザウバー F1 1995年C14は、レッドブルがF1で主要スポンサーとして名を連ねた最初のザウバー車だった。

2001年 最高位となるコンストラクターズ成績(当時)
2001年シーズンを前に、ザウバーは当時21歳のルーキー、キミ・ライコネンと契約し、大きな話題を呼んだ。経験不足を指摘する声も多かったが、若きフィンランド人は冷静な走りを重ね、その批判をすぐに黙らせた。一方、チームメイトのニック・ハイドフェルドは安定感と確実なポイント獲得でチームを支えた。

ザウバーC20は、限られた予算にもかかわらず、スピードと信頼性を兼ね備え、ジョーダン、BAR、ベネトンといったチームを抑えて、コンストラクターズランキング4位という快挙を成し遂げた。ハイライトはブラジルGPでのハイドフェルドで、雨の中、9番手から3位まで順位を上げ、自身初の表彰台を獲得した。

リバリー面でも、ザウバーは自信を深めていた。1990年代半ばから続くレッドブルの濃いブルーに加え、1997年から導入された鮮やかなペトロナスのシアンがサイドに配され、グリッドの中で本当に目を引く外観を作り上げていた。

ザウバー F1 2001年ドイツ人ドライバーのニック・ハイドフェルドは、F1参戦2年目にして、この年ザウバー唯一の表彰台を第3戦ブラジルGPで獲得した。

2003年 劇的な表彰台カムバック
比較的静かなシーズンとなった2003年だが、アメリカGP(インディアナポリス)では忘れがたいハイライトが生まれた。難しいコンディションの中、フレンツェンが完璧なタイミングでウエットタイヤに交換し、15番手から3位まで一気に順位を上げた。

このカムバックは、ザウバー史上屈指のパフォーマンスのひとつであり、フレンツェンにとっては通算18回目、そして最後のF1表彰台となった。彼の前にいたのは、ミハエル・シューマッハとキミ・ライコネンだけだった。

チームメイトのハイドフェルドも5位でフィニッシュし、シーズンベストリザルトを記録。このダブル入賞により、ザウバー・ペトロナスは、わずか1週末でコンストラクターズランキングを9位から5位へと押し上げるという、驚異的な成果を成し遂げた。

ザウバー F1 2003年ザウバーは1997年から2005年にかけて、ブルーとシアンの組み合わせを継続して使用した。

2007年 ザウバー史上最高のコンストラクターズ順位
2006年、ザウバーはドイツの自動車メーカーBMWと提携し、BMWザウバーとしてグリッドに再登場した。ジャック・ヴィルヌーヴとフェリペ・マッサで臨んだ2005年の不振を受け、チームは立て直しを図り、ハイドフェルドと、シーズン第12戦以降にヴィルヌーヴの後任として起用されたロバート・クビサが、それぞれ表彰台を獲得するなど、堅実なシーズンを送った。しかし、本当の飛躍はその先に待っていた。

2007年、フェラーリとマクラーレンは熾烈なタイトル争いを繰り広げていたが、ザウバーはその隙を突くように安定した戦いを続けた。ハイドフェルドがシーズンを通して獲得した表彰台は2回にとどまったものの、26回ものポイントフィニッシュを積み重ねたことが大きな強みとなった。さらに、スパイ行為問題によるマクラーレンのコンストラクターズランキング失格もあり、ザウバーは最終的にランキング2位という、チーム史上最高の成績を手にした。

この年のアメリカGPでは、若きセバスチャン・ベッテルがザウバーからF1デビューを果たした。カナダGPでのクビサの大クラッシュを受けての起用だったが、F1マシンでの走行経験がほとんどない中で8位入賞を果たし、早くも才能の片鱗を見せた。ベッテルは第11戦以降、トロ・ロッソへ移籍し、その後のキャリアは周知の通りである。

ザウバー F1 2007年BMWは洗練されたホワイトリバリーとともに、ザウバーに「ベスト・オブ・ザ・レスト」と呼ばれるだけの競争力をもたらした。

2008年 ロバート・クビサ、カナダで初優勝
ザウバーの歴史の中でも、最も感情を揺さぶる瞬間のひとつが、2008年カナダGPで訪れた。ロバート・クビサがF1初、そして結果的に唯一となる勝利を挙げ、BMWザウバーにとってもコンストラクターとしての初勝利となった。

この勝利が特別だった理由は、前年に同じジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで、クビサが大事故に見舞われていたことにある。マシンは原形をとどめないほど大破したが、彼は幸運にも足首の捻挫だけで済んだ。そして翌年、恐怖や迷いを一切感じさせることなく、F1.08で同地に戻ってきた。

後にクビサはこのように振り返っている。

「クラッシュのことは頭になかった。何も考えていなかった。ただやるべき仕事があっただけだ」

土曜日にはフロントローを獲得し、日曜日の決勝では完璧なレース運びを披露。戦略やパフォーマンスで他車が苦しむ中、クビサは一切のミスを犯さず、堂々の優勝を果たした。チームメイトのハイドフェルドも2位で続き、ザウバーにとって信じがたい1-2フィニッシュが完成した。

この勝利と1-2は、BMWザウバーをまったく新しい領域へと押し上げた。この日、チェッカーを最初に受けたことで、クビサはドライバーズランキング首位に立ち、チームとして初めてその位置を経験することになった。最終的にクビサはランキング3位でシーズンを終えたが、カナダでの勝利は今もチームにとって特別な記憶として残っている。

ザウバー F1 2008年ロバート・クビサは、F1で1勝にとどまる才能ではなかったが、その回復力と精神力により、モータースポーツ界の象徴的存在となった。

2012年 4度の表彰台
2008年の成功の後、ザウバーは再び厳しい時期を迎えた。新レギュレーションへの対応に苦しみ、2009年にはマレーシアとブラジルで表彰台を獲得したものの、コンストラクターズランキングは6位に後退。その後、BMWはF1撤退を決断し、チームは再びペーター・ザウバーの手に戻った。続く2シーズンも低迷が続いたが、2012年に転機が訪れる。

セルジオ・ペレスは、マレーシアGPでの2位フィニッシュによって大きな注目を集め、その後カナダでも再び表彰台を獲得した。ザウバーC31は全体的に競争力を備えており、結果の安定性には欠けたものの、ペレスと小林可夢偉は、イタリアGPと日本GPでも表彰台に上がった。特に日本GPでの小林の3位は、母国での快挙として大きな歓声に包まれた。

この年、ザウバーは合計4回の表彰台を獲得し、メルセデスを上回る成績を残した。これは間違いなく、チーム史上最も成功したシーズンのひとつである。

ザウバー F1 2012年セルジオ・ペレスは多くのメキシコ企業スポンサーをチームにもたらし、ザウバーはスペインGP後にチェルシーFCとも提携した。

2015年 改善と大胆な新リバリー
2014年に無得点でシーズンを終えたザウバーは、2015年に大きな改善を果たした。改良型C34を投入し、コンストラクターズランキング8位へ浮上。ルーキーのフェリペ・ナッセは、開幕戦オーストラリアGPで5位入賞という鮮烈なデビューを飾り、マーカス・エリクソンも8位で続いて、ダブルポイントを獲得した。

全19戦中9戦でポイントを獲得するという安定した成績は、前年からの劇的な進歩を示しており、チーム内部に将来への自信を取り戻させた。

しかし、このシーズンで最も話題を集めたのは、その大胆なブルーとイエローの新リバリーだった。ナッセのブラジル系スポンサー「ブランコ・ド・ブラジル」と、チェルシーFCからの追加支援によって生まれたこのカラーリングは、復調するザウバーに新たなアイデンティティを与えた。

ザウバー F1 2015年フェリペ・ナッセはアイルトン・セナに敬意を表して12番を使用し、リバリーにも南米らしい雰囲気をもたらした。

2018年 ルーキーのルクレール台頭と「ザウバー」への別れ
フレデリック・バスールがチーム代表に就任した2018年、ザウバーは再び急速な復調を遂げた。フェラーリ製パワーユニットを搭載したC37は、時に競争力を発揮し、ルーキーのシャルル・ルクレールがシーズンの主役となった。

ルクレールは、チームが獲得した48ポイントのうち39ポイントを一人で稼ぎ出し、シーズン最高位6位を記録。強烈な印象を残した。この年は、当時としてはザウバー名義での最後のシーズンでもあり、次なるリブランドを前にした力強い別れとなった。

C37のリバリーは、白を基調に赤と黒を配したクラシックなデザインで、グリッド上でも特に愛されたもののひとつだった。ザウバーとしての最終章にふさわしい装いだったと言える。

ザウバー F1 2018年C37のリバリーは、ザウバーの歴史の中でも特に高い人気を誇った。

2022年 アルファロメオとしての再生
リブランド後、アルファロメオとして迎えた2022年は、チームにとって実りあるシーズンとなった。バルテリ・ボッタスが中心となり、56ポイント中49ポイントを獲得。開幕9戦中7戦でポイントフィニッシュを記録した。ルーキーの周冠宇も安定した走りで貢献し、チームはコンストラクターズランキング6位、10年ぶりとなる好成績を収めた。

シーズン終盤には、2026年からアウディのワークスチームとなることが正式に発表され、新たな時代への期待が一気に高まった。

ザウバー F1 2022年アルファロメオ時代のリバリーは、歴代でも屈指のファンフェイバリットとして語られている。

2024/25年 最終章
ザウバー最後のリバリーは、ネオングリーンとブラックを大胆に組み合わせたデザインで、グリッド上で強烈な存在感を放った。市街地レースの照明の下でも、デイレースでも際立ち、瞬時に記憶に残るルックスとなった。

2024年は厳しいシーズンとなり、C44はスピード不足に苦しみ、序盤はピットストップのトラブルにも悩まされた。しかし、シーズン終盤には競争力を取り戻し、カタールGPで周冠宇が8位に入り、チーム唯一のポイントを獲得した。

2025年には、ニコ・ヒュルケンベルグとルーキーのガブリエル・ボルトレトが、チームをコンストラクターズランキング9位、70ポイントへと押し上げた。これは前年の4ポイントからの大躍進だった。ヒュルケンベルグは、2025年イギリスGPでF1参戦15年目にして初の表彰台を獲得し、ザウバーにとって、そしてチーム時代最後にふさわしい、忘れがたいフィナーレをもたらした。

ザウバー F1 2025年ニコ・ヒュルケンベルグの2025年の表彰台は、彼自身初であり、ザウバーにとって最後の表彰台となった。


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カテゴリー: F1 / ザウバーF1チーム / BMW / アルファロメオF1チーム