ホンダF1 特集:ホッケンハイムリンクの魅力
F1ドイツGPが行われるホッケンハイムは、毎年F1が開催されているわけではないので、チームが毎年訪れる場所に比べれば、そこまで親しみ深いサーキットとは言えない。
さらに、レースが開催されるホッケンハイムリンクでは近年、大規模なレイアウト改修も行われた。これまでのヨーロッパ3連戦が開催されてきたサーキットを見れば分かるように、改修自体はそこまで珍しいことではない。
いくつかのサーキットは、時間の流れとともにそのすがたを変えてきた。しかし、ドイツGPのホームサーキットが改修により劇的な変化を遂げたことは間違いない。
2001年まで、ホッケンハイムではスタジアムセクションに戻る直前に、深い森の中を駆け抜ける、およそ4kmにもまたがる高速ストレートが設定されていた。途中、マシンを減速しなくてはならないシケインもいくつか用意されていたものの、1980年代にはシケインすらなく、生粋のパワーサーキットとして知られていた。
当時のホッケンハイムを、ホンダF1のテクニカルディレクターを務める田辺豊治はこう振り返る。
「1980年代中期には、ロータスやウィリアムズ、マクラーレンといったチームとタッグを組んでいました。当時のホッケンハイムは、シルバーストンやスパ、モンツァといった高速サーキットの一つだったんです。我々はそうしたレイアウトでかなりの強さを発揮しており、中でもホッケンハイムはチームのお気に入りでしたね。とにかく、強かったんです」
田辺豊治の言葉通り、ホンダのエンジンを積んだマシンは1986年から1990年の間、ドイツGPで連覇を達成。その内の3勝利は、ウィリアムズとのパートナーシップでもたらされたものだった。
「1986年にはウィリアムズとタッグを組んでいました。その年は、燃料マネージメントがレースのカギだったんです。当時のホッケンハイムではその燃費が常に大きな課題だったのですが、ドライバー側がある程度はコントロールできル部分でもありました」
「そのため、いかに速く走るか、どこでどう燃料を使うかに関してはレース中、随時そのバランスを探りながら走行させていました。当時のドライバーであったネルソン・ピケと立てた戦略は、スタートからはフルスロットルで走行し、そのあとで燃費をセーブしながら走行していくというものです。そうすれば、チェッカーフラッグまでに後続車との間に十分なアドバンテージを築けますからね」
この戦略は的中し、ウィリアムズはTAGエンジン(ポルシェ製)を積んでいたマクラーレンに15秒差で勝利をつかんだ。ドイツのマニファクチャラーを、そのホームで見事に打ち破った。
「あれはとても嬉しかったですね。我々は常にほかのマニファクチャラーと戦っていました。ドイツGPでは、その相手がポルシェだったわけです。当時、最も強いエンジンとして知られていたTAGポルシェに、我々は何回も勝利を収めることができました。本当に満足のいく結果でしたね」
1987年のドイツGPでも、ウィリアムズが勝利を収めた。しかし予選でネルソン・ピケを上回る速さを見せたのが、ホンダのエンジンを積んだロータスマシンを操るナイジェル・マンセルとアイルトン・セナだった。
「1987年もウィリアムズでメカニックを務めていましたが、この年のホッケンハイムではウィリアムズだけでなくロータスも、強さを見せつけていました。我々は、ポジションをキープするために改善を続けていました。当時はエンジンの使用可能数もレギュレーションで制限されていなかったので、フリー走行、予選、レース用にそれぞれエンジンを乗せ換えることも可能だったんです」
「例えば、レースではいいポジションからスタートするために、予選用エンジンだけ特別なものに変えることだってできたんですよ。エンジン開発に関しては、今と比べるとかなり自由が許されていましたからね」
「そうした背景があったので、エンジンに大きな負荷をかけて走行させることもありましたね。今も同じようなことはありますが、当時と大きく違うのは今のエンジンにはより高い信頼性が求められるということです。昔はレースでは350km、予選で言えば100kmだけエンジンを持たせられればよかったんです。ほかにもエンジンの規制が厳しくないことにより、多くの選択肢がありました。毎晩エンジンの載せ替え作業をするというのも、それはそれで大変でしたけどね(笑)」
「現代は当時とはまた異なるストレスがあるんです」
1987年のドイツGPでは3位に終わったもの、セナはその後の3年間にわたってドイツグランプリの連覇を成し遂げる。絶対的な王者、マクラーレン・ホンダの快進撃が始まった瞬間だった。
強いエンジンとシャシーの組み合わせが可能にできることを見せつけたことで、ホッケンハイムリンクは、ホンダエンジンのパフォーマンスが非常に重要となるグランプリへと、その立ち位置を変えていった。
「ホッケンハイムリンクは、マシンへの要求が最も高いサーキットの一つでした。最もマシンに厳しいとされるモンツァには少し劣るものの、それでもほとんど同レベルの難しさだったんじゃないでしょうか。当時は4つのストレートがあり、エンジンには特に厳しかったですね。スタジアムセクションではドライバビリティーも求められ、マシンのさまざまな性能が試されるレイアウトでした」
「ホッケンハイムでは、テストもよく行っていました。ロングストレートが設置されていたこともあって、当時の我々にとっては、ドライバビリティーよりもむしろパワーのテストを行うのに向いたレイアウトだったんだと思います」
「新しくなったホッケンハイムにも、当時の名残はまだ残っていますが、やはり昔のレイアウトの方が好きですね。当時の方が、マシンにとってより難しく、厳しいチャレンジになっていたと思います。とにかく高速レイアウトで、フルスロットル走行をするセクションが多くありました。新レイアウトではストレートが半分以上カットされているので、当時よりはマシンに優しくなっています」
「シャシー面に関してはどうだったのか分かりませんが、エンジンマニファクチャラーの視点から見れば、ドライバビリティーももちろん重要ですがそれ以上にパワーが求められるサーキットでした。我々としてはおもしろかったですよ」
2002年以降のF1ドイツGPは、コースが短縮されたホッケンハイムリンクで開催されてきた。新レイアウトでは、ストレートが減ったことでその分、コーナーが多くなり、エンジンとシャシーのよりいいバランスが求められるようになった。かつてのホッケンハイムが好みだと言う田辺豊治も、カレンダーの中で様々なバリエーションのサーキットが増えることはいいことだと話す。
「いくつかのユニークなレイアウトを持つサーキットが加わり、さまざまなチャレンジが新しく生まれていると思います。モナコはもちろんのこと、ロングストレートを持つアゼルバイジャンや、ダウンフォースを削ってパワーを出すことが求められるカナダなど、さまざまな性格を持ったサーキットがいくつもありますよ」
2015年にF1へ復帰してから、ホンダがホッケンハイムで走行を行ったのはジェンソン・バトンが8位入賞を果たした16年のみ。今年はシャシー、そしてパワーユニットの両方において中団グループでの戦いは激化の一途をたどっており、最近投入したアップデートも、まだ安定した結果を残すことができていない状態だ。
しかし、シルバーストンではいい予兆を見つけることができた。ペナルティーにより順位を落としたものの、ピエール・ガスリーが10位でフィニッシュ。田辺豊治は、マシンの性能を最大限に発揮するべく、さらに進化を続けていくつもりだと話す。
「オーストリアでアップデートを投入してから、まだパッケージ全体でのセッティングを探っている状態です。ホッケンハイムに関しても、まだまだ学ばなくてはならないことがたくさんあります」
「カナダで投入した新パワーユニット、そしてオーストリアで投入した新シャシーに関して、チームはまだ学習を続けています」
「その学習が実を結ぶにはまだ時間がかかるかもしれませんが、いい方向性に近づいていることは間違いありません。このペースを保ちつつ、作業を続けていきます」
関連:2018年 F1ドイツGP テレビ放送時間&タイムスケジュール
カテゴリー: F1 / ホンダF1 / F1ドイツGP
さらに、レースが開催されるホッケンハイムリンクでは近年、大規模なレイアウト改修も行われた。これまでのヨーロッパ3連戦が開催されてきたサーキットを見れば分かるように、改修自体はそこまで珍しいことではない。
いくつかのサーキットは、時間の流れとともにそのすがたを変えてきた。しかし、ドイツGPのホームサーキットが改修により劇的な変化を遂げたことは間違いない。
2001年まで、ホッケンハイムではスタジアムセクションに戻る直前に、深い森の中を駆け抜ける、およそ4kmにもまたがる高速ストレートが設定されていた。途中、マシンを減速しなくてはならないシケインもいくつか用意されていたものの、1980年代にはシケインすらなく、生粋のパワーサーキットとして知られていた。
当時のホッケンハイムを、ホンダF1のテクニカルディレクターを務める田辺豊治はこう振り返る。
「1980年代中期には、ロータスやウィリアムズ、マクラーレンといったチームとタッグを組んでいました。当時のホッケンハイムは、シルバーストンやスパ、モンツァといった高速サーキットの一つだったんです。我々はそうしたレイアウトでかなりの強さを発揮しており、中でもホッケンハイムはチームのお気に入りでしたね。とにかく、強かったんです」
田辺豊治の言葉通り、ホンダのエンジンを積んだマシンは1986年から1990年の間、ドイツGPで連覇を達成。その内の3勝利は、ウィリアムズとのパートナーシップでもたらされたものだった。
「1986年にはウィリアムズとタッグを組んでいました。その年は、燃料マネージメントがレースのカギだったんです。当時のホッケンハイムではその燃費が常に大きな課題だったのですが、ドライバー側がある程度はコントロールできル部分でもありました」
「そのため、いかに速く走るか、どこでどう燃料を使うかに関してはレース中、随時そのバランスを探りながら走行させていました。当時のドライバーであったネルソン・ピケと立てた戦略は、スタートからはフルスロットルで走行し、そのあとで燃費をセーブしながら走行していくというものです。そうすれば、チェッカーフラッグまでに後続車との間に十分なアドバンテージを築けますからね」
この戦略は的中し、ウィリアムズはTAGエンジン(ポルシェ製)を積んでいたマクラーレンに15秒差で勝利をつかんだ。ドイツのマニファクチャラーを、そのホームで見事に打ち破った。
「あれはとても嬉しかったですね。我々は常にほかのマニファクチャラーと戦っていました。ドイツGPでは、その相手がポルシェだったわけです。当時、最も強いエンジンとして知られていたTAGポルシェに、我々は何回も勝利を収めることができました。本当に満足のいく結果でしたね」
1987年のドイツGPでも、ウィリアムズが勝利を収めた。しかし予選でネルソン・ピケを上回る速さを見せたのが、ホンダのエンジンを積んだロータスマシンを操るナイジェル・マンセルとアイルトン・セナだった。
「1987年もウィリアムズでメカニックを務めていましたが、この年のホッケンハイムではウィリアムズだけでなくロータスも、強さを見せつけていました。我々は、ポジションをキープするために改善を続けていました。当時はエンジンの使用可能数もレギュレーションで制限されていなかったので、フリー走行、予選、レース用にそれぞれエンジンを乗せ換えることも可能だったんです」
「例えば、レースではいいポジションからスタートするために、予選用エンジンだけ特別なものに変えることだってできたんですよ。エンジン開発に関しては、今と比べるとかなり自由が許されていましたからね」
「そうした背景があったので、エンジンに大きな負荷をかけて走行させることもありましたね。今も同じようなことはありますが、当時と大きく違うのは今のエンジンにはより高い信頼性が求められるということです。昔はレースでは350km、予選で言えば100kmだけエンジンを持たせられればよかったんです。ほかにもエンジンの規制が厳しくないことにより、多くの選択肢がありました。毎晩エンジンの載せ替え作業をするというのも、それはそれで大変でしたけどね(笑)」
「現代は当時とはまた異なるストレスがあるんです」
1987年のドイツGPでは3位に終わったもの、セナはその後の3年間にわたってドイツグランプリの連覇を成し遂げる。絶対的な王者、マクラーレン・ホンダの快進撃が始まった瞬間だった。
強いエンジンとシャシーの組み合わせが可能にできることを見せつけたことで、ホッケンハイムリンクは、ホンダエンジンのパフォーマンスが非常に重要となるグランプリへと、その立ち位置を変えていった。
「ホッケンハイムリンクは、マシンへの要求が最も高いサーキットの一つでした。最もマシンに厳しいとされるモンツァには少し劣るものの、それでもほとんど同レベルの難しさだったんじゃないでしょうか。当時は4つのストレートがあり、エンジンには特に厳しかったですね。スタジアムセクションではドライバビリティーも求められ、マシンのさまざまな性能が試されるレイアウトでした」
「ホッケンハイムでは、テストもよく行っていました。ロングストレートが設置されていたこともあって、当時の我々にとっては、ドライバビリティーよりもむしろパワーのテストを行うのに向いたレイアウトだったんだと思います」
「新しくなったホッケンハイムにも、当時の名残はまだ残っていますが、やはり昔のレイアウトの方が好きですね。当時の方が、マシンにとってより難しく、厳しいチャレンジになっていたと思います。とにかく高速レイアウトで、フルスロットル走行をするセクションが多くありました。新レイアウトではストレートが半分以上カットされているので、当時よりはマシンに優しくなっています」
「シャシー面に関してはどうだったのか分かりませんが、エンジンマニファクチャラーの視点から見れば、ドライバビリティーももちろん重要ですがそれ以上にパワーが求められるサーキットでした。我々としてはおもしろかったですよ」
2002年以降のF1ドイツGPは、コースが短縮されたホッケンハイムリンクで開催されてきた。新レイアウトでは、ストレートが減ったことでその分、コーナーが多くなり、エンジンとシャシーのよりいいバランスが求められるようになった。かつてのホッケンハイムが好みだと言う田辺豊治も、カレンダーの中で様々なバリエーションのサーキットが増えることはいいことだと話す。
「いくつかのユニークなレイアウトを持つサーキットが加わり、さまざまなチャレンジが新しく生まれていると思います。モナコはもちろんのこと、ロングストレートを持つアゼルバイジャンや、ダウンフォースを削ってパワーを出すことが求められるカナダなど、さまざまな性格を持ったサーキットがいくつもありますよ」
2015年にF1へ復帰してから、ホンダがホッケンハイムで走行を行ったのはジェンソン・バトンが8位入賞を果たした16年のみ。今年はシャシー、そしてパワーユニットの両方において中団グループでの戦いは激化の一途をたどっており、最近投入したアップデートも、まだ安定した結果を残すことができていない状態だ。
しかし、シルバーストンではいい予兆を見つけることができた。ペナルティーにより順位を落としたものの、ピエール・ガスリーが10位でフィニッシュ。田辺豊治は、マシンの性能を最大限に発揮するべく、さらに進化を続けていくつもりだと話す。
「オーストリアでアップデートを投入してから、まだパッケージ全体でのセッティングを探っている状態です。ホッケンハイムに関しても、まだまだ学ばなくてはならないことがたくさんあります」
「カナダで投入した新パワーユニット、そしてオーストリアで投入した新シャシーに関して、チームはまだ学習を続けています」
「その学習が実を結ぶにはまだ時間がかかるかもしれませんが、いい方向性に近づいていることは間違いありません。このペースを保ちつつ、作業を続けていきます」
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