ホンダF1 特集:1986年エストリル - セナに完勝したマンセル
先週末は、アルガルベ・インターナショナル・サーキットでのF1初開催となったが、ポルトガルでのグランプリ開催には長い歴史がある。
初めてF1ポルトガルGPが開催されたのは、1958年。同国北部のポルトに設置された市街地コース、ボアビスタ・サーキットだった。翌年は首都リスボンの公道を舞台にしたモンサント・サーキットで行われ、1960年には再びボアビスタでの開催となった。
それから10年以上を経て、1984年にリスボン郊外の常設サーキットであるエストリルでの開催がスタートする。ここエストリルでは、ホンダF1として過去に2勝を挙げているが、なかでも1986年のレースは、F1の歴史に名を残す2人のレジェンドによる素晴らしい戦いが繰り広げられた。
1986年は史上稀に見るスリリングなシーズンとなり、アデレードで行われた最終戦で、ウイリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルがタイヤバーストを喫してタイトル獲得の望みが絶たれるという劇的な幕切れを迎えた。マンセルは、シーズンを通じて素晴らしいパフォーマンスを発揮し、このポルトガルでも印象的なレースを展開した。
モンツァでのイタリアGPでウイリアムズ・ホンダは、マンセルとネルソン・ピケによって1-2フィニッシュを果たし、マンセルは残り3戦でポイントリーダーとしてポルトガルGPに臨む。この年のタイトル争いは激戦で、マンセルと5ポイント差にピケ、8ポイント差にアラン・プロスト、13ポイント差にアイルトン・セナというランキングになっていた。
この年のレギュレーションでは、優勝で9ポイント、さらに全16戦の上位11戦のポイントをランキングに反映する有効ポイント制が採用されていた。残り3戦で首位と13ポイント差のアイルトン・セナにとって、逆転の望みはわずかなものと見られていたが、予選で常に上位につけていたこともあり、手強い存在であることに変わりはなかった。
エストリルでも圧倒的な速さを見せたアイルトン・セナは、予選で2番手のマンセルに約0.8秒差をつけ、シーズン7度目のポールポジションを獲得。3番手のプロストとは1秒以上の差があった。しかし、アイルトン・セナの駆るロータス・ルノーは、予選の速さをレースでも発揮していたわけではなく、レースディスタンスではホンダ V6エンジンにも十分な勝機があった。
決勝スタート前、ナイジェル・マンセルは狙いを1コーナーに定めていた。ポールポジションのグリッドはイン側に位置しており、スタートでリードを奪うつもりでいた。ウイリアムズ・ホンダのレースペースには自信のあったマンセルだったが、道中でアイルトン・セナをオーバーテイクするのはかなり厳しいと踏んでいた。
1986年のスタートは、グリッド上のシグナルが赤から青へと切り替わる方式だった。英国の歴史ある雑誌「Motor Sport Magazine」で長年腕を振るうデニス・ジェンキンソン記者は、当時を振り返り、マンセルの狙いをこう書き残している。
「レース後、彼に話を聞くと、スターティンググリッドでレッドライトのフィラメントを見つめていたと明かしてくれました。彼はグリーンに切り替わる寸前に空白の時間があると考え、レッドライトが薄暗くなった瞬間にスタートを切ったのです」
「ピットでそれに気付いた人間はわずかで、ジャンプスタートを狙ったのではないかと首をかしげましたが、それを証明するものはありません。ラインのよさもあって、マンセルの判断は完璧と言えました」
スタートで飛び出したナイジェル・マンセルは、アイルトン・セナをかわして1コーナーへ。2人は後続を引き離し、ベネトンのゲルハルト・ベルガー、ピケ、さらに離れてプロストというオーダーとなり、マンセルの考えていたスタートの重要性を証明する結果となった。アイルトン・セナは、オープニングラップこそマンセルを視界に捉えていたが、次第にマンセルの走りに反応できなくなっていく。
この展開に、ジェンキンソンはこう記している。
「マンセルはそれまでも長いレースキャリアがありましたが、さらに学びを深めているように見えて、この年のパフォーマンスは特に記憶に残るものでした。ポルトガルでも、1コーナーでアイルトン・セナの前に出ると、勝負は決したかのように感じられたものです。スタートで飛び出し、下り勾配の高速右コーナーをよどみなく駆け抜けて、首位を確実なものにすると、さらに突き進みます。ホンダエンジンも、そのドライビングに応えてパワーを発揮しました」
「マンセルはウイリアムズ・ホンダのレースペースはもちろん、燃費マネージメントのシステムにも自信を持っていました。その後も攻め続け、53周目にはラップレコードも記録しています」
ポイントリーダーの面目躍如といった走りを見せたナイジェル・マンセルだったが、その後方ではアイルトン・セナがピケとプロストを抑えており、やはりスタートで前に出るという作戦は的確だった。その後、最終ラップでセナは燃料切れを起こし、最終的に4位でフィニッシュする。
実は、この出来事がマンセルの運命に大きく影響する。もしアイルトン・セナがそのまま2位でフィニッシュしていた場合、最終戦後にプロストと同ポイントで並び、シーズン5勝を挙げたマンセルは、4勝のプロストに対して勝利数で上回るため、タイトルを手にしていた。しかし、マンセル本人は当時そんなことを考えてはおらず、レース後にこうコメントしている。
「シーズン終盤でネルソンとアランというチャンピオン経験者を抑えてランキング首位に立ち、これを終えれば残り2戦というところでしたから、年間で最も重要なレースでした。タイトル争いに踏みとどまるためには絶対に勝たなければならないと思っていました」
「(次のレースでタイトルが決まることを)願いましょう。ただ、まだそこまで考えていません。とにかく今日はでき得る最高の仕事をして、9ポイントを獲得できました。(ポイント獲得が11戦目となったことで)残念ながら、次のレースからはポイントが伸びない可能性もあるので、まだ分かりません。2レースも残っていますからね・・・」
このときのナイジェル・マンセルの考えは、図らずも的中してしまった。アイルトン・セナの後退によって4番手から3位に上がったアラン・プロストは獲得ポイントを2つ増やし、残り2戦でポイントを伸ばせなかったマンセルは、その2ポイント差でチャンピオンを逃す結果となった。しかし、エストリルでのマンセルは、完璧なレースを展開して、実力を証明してみせた。その走りが色あせることはない。
カテゴリー: F1 / ホンダF1 / アイルトン・セナ / F1ポルトガルGP
初めてF1ポルトガルGPが開催されたのは、1958年。同国北部のポルトに設置された市街地コース、ボアビスタ・サーキットだった。翌年は首都リスボンの公道を舞台にしたモンサント・サーキットで行われ、1960年には再びボアビスタでの開催となった。
それから10年以上を経て、1984年にリスボン郊外の常設サーキットであるエストリルでの開催がスタートする。ここエストリルでは、ホンダF1として過去に2勝を挙げているが、なかでも1986年のレースは、F1の歴史に名を残す2人のレジェンドによる素晴らしい戦いが繰り広げられた。
1986年は史上稀に見るスリリングなシーズンとなり、アデレードで行われた最終戦で、ウイリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルがタイヤバーストを喫してタイトル獲得の望みが絶たれるという劇的な幕切れを迎えた。マンセルは、シーズンを通じて素晴らしいパフォーマンスを発揮し、このポルトガルでも印象的なレースを展開した。
モンツァでのイタリアGPでウイリアムズ・ホンダは、マンセルとネルソン・ピケによって1-2フィニッシュを果たし、マンセルは残り3戦でポイントリーダーとしてポルトガルGPに臨む。この年のタイトル争いは激戦で、マンセルと5ポイント差にピケ、8ポイント差にアラン・プロスト、13ポイント差にアイルトン・セナというランキングになっていた。
この年のレギュレーションでは、優勝で9ポイント、さらに全16戦の上位11戦のポイントをランキングに反映する有効ポイント制が採用されていた。残り3戦で首位と13ポイント差のアイルトン・セナにとって、逆転の望みはわずかなものと見られていたが、予選で常に上位につけていたこともあり、手強い存在であることに変わりはなかった。
エストリルでも圧倒的な速さを見せたアイルトン・セナは、予選で2番手のマンセルに約0.8秒差をつけ、シーズン7度目のポールポジションを獲得。3番手のプロストとは1秒以上の差があった。しかし、アイルトン・セナの駆るロータス・ルノーは、予選の速さをレースでも発揮していたわけではなく、レースディスタンスではホンダ V6エンジンにも十分な勝機があった。
決勝スタート前、ナイジェル・マンセルは狙いを1コーナーに定めていた。ポールポジションのグリッドはイン側に位置しており、スタートでリードを奪うつもりでいた。ウイリアムズ・ホンダのレースペースには自信のあったマンセルだったが、道中でアイルトン・セナをオーバーテイクするのはかなり厳しいと踏んでいた。
1986年のスタートは、グリッド上のシグナルが赤から青へと切り替わる方式だった。英国の歴史ある雑誌「Motor Sport Magazine」で長年腕を振るうデニス・ジェンキンソン記者は、当時を振り返り、マンセルの狙いをこう書き残している。
「レース後、彼に話を聞くと、スターティンググリッドでレッドライトのフィラメントを見つめていたと明かしてくれました。彼はグリーンに切り替わる寸前に空白の時間があると考え、レッドライトが薄暗くなった瞬間にスタートを切ったのです」
「ピットでそれに気付いた人間はわずかで、ジャンプスタートを狙ったのではないかと首をかしげましたが、それを証明するものはありません。ラインのよさもあって、マンセルの判断は完璧と言えました」
スタートで飛び出したナイジェル・マンセルは、アイルトン・セナをかわして1コーナーへ。2人は後続を引き離し、ベネトンのゲルハルト・ベルガー、ピケ、さらに離れてプロストというオーダーとなり、マンセルの考えていたスタートの重要性を証明する結果となった。アイルトン・セナは、オープニングラップこそマンセルを視界に捉えていたが、次第にマンセルの走りに反応できなくなっていく。
この展開に、ジェンキンソンはこう記している。
「マンセルはそれまでも長いレースキャリアがありましたが、さらに学びを深めているように見えて、この年のパフォーマンスは特に記憶に残るものでした。ポルトガルでも、1コーナーでアイルトン・セナの前に出ると、勝負は決したかのように感じられたものです。スタートで飛び出し、下り勾配の高速右コーナーをよどみなく駆け抜けて、首位を確実なものにすると、さらに突き進みます。ホンダエンジンも、そのドライビングに応えてパワーを発揮しました」
「マンセルはウイリアムズ・ホンダのレースペースはもちろん、燃費マネージメントのシステムにも自信を持っていました。その後も攻め続け、53周目にはラップレコードも記録しています」
ポイントリーダーの面目躍如といった走りを見せたナイジェル・マンセルだったが、その後方ではアイルトン・セナがピケとプロストを抑えており、やはりスタートで前に出るという作戦は的確だった。その後、最終ラップでセナは燃料切れを起こし、最終的に4位でフィニッシュする。
実は、この出来事がマンセルの運命に大きく影響する。もしアイルトン・セナがそのまま2位でフィニッシュしていた場合、最終戦後にプロストと同ポイントで並び、シーズン5勝を挙げたマンセルは、4勝のプロストに対して勝利数で上回るため、タイトルを手にしていた。しかし、マンセル本人は当時そんなことを考えてはおらず、レース後にこうコメントしている。
「シーズン終盤でネルソンとアランというチャンピオン経験者を抑えてランキング首位に立ち、これを終えれば残り2戦というところでしたから、年間で最も重要なレースでした。タイトル争いに踏みとどまるためには絶対に勝たなければならないと思っていました」
「(次のレースでタイトルが決まることを)願いましょう。ただ、まだそこまで考えていません。とにかく今日はでき得る最高の仕事をして、9ポイントを獲得できました。(ポイント獲得が11戦目となったことで)残念ながら、次のレースからはポイントが伸びない可能性もあるので、まだ分かりません。2レースも残っていますからね・・・」
このときのナイジェル・マンセルの考えは、図らずも的中してしまった。アイルトン・セナの後退によって4番手から3位に上がったアラン・プロストは獲得ポイントを2つ増やし、残り2戦でポイントを伸ばせなかったマンセルは、その2ポイント差でチャンピオンを逃す結果となった。しかし、エストリルでのマンセルは、完璧なレースを展開して、実力を証明してみせた。その走りが色あせることはない。
カテゴリー: F1 / ホンダF1 / アイルトン・セナ / F1ポルトガルGP