F1世界選手権の誕生から75周年 初戦シルバーストンに隠された10の逸話

グランプリ・ド・ヨーロッパ、そしてブリティッシュGPという二重の冠を持ち、12万人以上が詰めかけた歴史的レースには、今では考えられないほど多彩な人々がグリッドに並んでいた。
この記事では、F1創成期の知られざる10のトリビアを紐解きながら、2025年の今日に至るまで続くF1の物語の原点に迫る。
1. このレースには2つの名称があった
信じがたいことだが、初の世界選手権レースには2つの名称が存在していた。公式には「グランプリ・ド・ヨーロッパ(Grand Prix d’Europe)」――この称号がイタリアやフランス以外のレースに与えられたのはこれが初めてだった――であったが、英国での開催であったため「イギリスGP」の名称も併用されていた。
なお、現代では開幕戦が3月に開催されるのが通例だが、このレースは5月13日に行われている。F1開幕戦がこれより遅く開催されたのは7度のみで、それぞれ1951年(5月27日)、1952年(5月18日)、1961年(5月14日)、1962年(5月20日)、1963年(5月26日)、1966年(5月22日)、2020年(7月5日)だった。
2. ウッドコートがF1史上初のコーナーだった
1952年から2011年まで、シルバーストンの最終コーナーとして知られたウッドコートだが、世界選手権初開催となったこのレースでは、全長4.6kmのコースの第1コーナーとして使用された。つまり、F1史上最初にドライバーが通過したコーナーである。
その後、コプス、マゴッツ、ベケッツ、チャペル、ストウ、クラブの各コーナーを経て最終のアビーへ向かうレイアウトで、スタート位置とピットレーンはアビーとウッドコートの間に設けられ、グリッドは4-3-4の並びで構成された。

3. 王族が来場した
レース当日、約12万人がサーキットを囲んだと推定されているが、その中で最も著名な観客は、国王ジョージ6世だった。彼はエリザベス王妃、マーガレット王女、マウントバッテン卿夫妻とともにレースを観戦している。英国モータースポーツ史上、在位中の国王がレースを観戦したのはこれが唯一の例だ。
4. タイの王子とスイスの男爵が出場
王族が観戦するのにふさわしく、出走ドライバーにも高貴な出自の者がいた。
参加した21人のうち、タイ王室の一員でレーサーとしても知られたビラ・ボンセー・バヌバン(通称:プリンス・ビラ/B.ビラ)と、1949年の非選手権イギリスGPの勝者でスイス貴族のエマニュエル“トゥーロ”・ド・グラフェンリード男爵が含まれていた。
プリンス・ビラはマセラティで予選5番手と健闘したが、燃料切れでリタイア。グラフェンリードも同型のマセラティで出走したが、エンジントラブルで完走できなかった。

5. 優勝候補3人の名字はすべて“Fa”で始まっていた
アルファロメオの158は当時すでに13年落ちの設計だったが、1.5Lスーパーチャージャー搭載のこのマシンは依然として最速で、同チームは当時のビッグネーム3人を起用していた。ジュゼッペ“ニーノ”・ファリーナ、ルイジ・ファジオーリ、フアン・マヌエル・ファンジオの“3つのF”だ。
この3人は予選で1~3番手を独占。4番手には英国のレグ・パーネルが続いた。レースではこの3人が他車を大きく引き離して首位争いを展開したが、最終的にはファリーナが優勝し、ファジオーリが2位。3位にはファンジオではなく、ストウで藁のバリアに接触してオイルパイプを破損したファンジオに代わって、パーネルが表彰台に上った。
6. 野生動物がレースに乱入
アルファロメオ勢は終盤まで3台が順調に走行していたが、パーネルのマシンがシルバーストンに生息する野ウサギと接触し、カウルに大きな凹みが生じたと当時の報道に記されている。

7. 出走者の平均年齢は39歳だった
2025年開幕戦オーストラリアGPの出走ドライバーの平均年齢は約27歳だが、世界選手権初戦では39歳とかなり高めだった。
50歳以上が3名(ルイジ・ファジオーリ51歳、ルイ・シロン50歳、フィリップ・エタンセラン53歳)、さらに40歳以上も5名含まれており、優勝したファリーナも43歳だった。
一方、最年少は29歳のジェフリー・クロスリー。ちなみにこれはマックス・フェルスタッペンがF1デビューしたときより12歳も年上だった。
8. ジャズ・ミュージシャンが11位で完走
冗談のように聞こえるが、本当にジャズ・ミュージシャンが出場していた。ジョニー・クレースは「ジョニー・クレース&ザ・クレイ・ピジョンズ」というバンドで成功していた英国生まれのベルギー人だった。
彼はこのレースでタルボをドライブし、予選ではファリーナから18秒遅れの最下位。しかし、レースでは11位でフィニッシュし、完走を果たしている。

9. BRMは決勝前にデモ走行を披露
英国の新興チームであるBRMは、このレースでV16エンジンを搭載した「タイプ15」を実戦投入しようとしていたが、技術的なトラブルにより本戦には出場できなかった。
代わりに、創設者レイモンド・メイズがステアリングを握り、予選前に数周のデモンストレーション走行を行った。このマシンの本格的な世界選手権デビューは翌1951年のシルバーストンで実現する。
10. スターリング・モスはサポートレースで2位
後に1955年と1957年のイギリスGPで優勝するスターリング・モスだが、1950年の世界選手権初戦では本戦には出場しておらず、500ccクラスのサポートレースに参戦していた。
彼は予選ヒートを制し、決勝でも激しい首位争いを展開したが、最終コーナーでエンジンにピストントラブルが発生し、2位に終わった。
それでも、国王と対面する機会を得たことは彼にとって忘れがたい瞬間となったに違いない。
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