F1:アイルトン・セナとエンツォ・フェラーリの直筆書簡が競売へ

F1の遺産やスポーツカーの物語に関心がある者にとって、両者の名前と功績は必修事項と言えるが、それでも彼らの物語がすべて語り尽くされているわけではない。
デジタル時代と手紙文化の優劣を論じる場ではないが、インターネットが存在しなかった時代、そしてペンと紙だけが頼りだった時代があったからこそ、セナとフェラーリの内面を垣間見る新たな窓が開かれた。
競売大手クリスティーズは、エンツォ・フェラーリとアイルトン・セナによる書簡コレクションを、12月11日木曜日にロンドンで競売にかける予定だ。いずれも、これらの先駆者たちの人生を新たな角度から映し出す内容となっている。
セナの書簡が示す、19歳の内省と技術的情熱
セナのコレクションは、特に目を引く存在だ。ブラジル人F1チャンピオンは、もともと手紙を多く残す人物ではなかった。実際、クリスティーズの鑑定担当者によれば、これまで競売で真正と認定されたセナの書簡は、わずか2通か3通程度しか存在しなかったという。今回出品される25ページに及ぶ書簡群は、これまで市場に出た中で最大規模のものとなる。
さらに重要なのは、その内容だ。これらの手紙は、一般の人々がこれまでに最も近い距離で、セナの思考の働きや社会的な側面を目にすることができる資料とされている。
書簡は1979年5月14日付のものから始まる。そこでは、当時イタリアでテストしていた水冷カートエンジンについて、セナが詳細に記している。手紙はスイスのモントルー近郊から送られたものだった。当時のセナは19歳にすぎなかったが、すでに自らの技術に対して非常に強い献身を示していた。彼は、ピストン、ラジエーター、ウォーターポンプ、ベルト駆動システムといったテストベンチの構成を図解し、自身が革命的だと考えた技術について説明している。また同時に、カート時代に犯した自分自身のミスについても、率直に振り返っている。
「2基の水冷エンジンをテストした。それらは、従来型冷却の同モデルと比べて、0.5秒も速く走った。これらのエンジンには大きな利点がある。平均作動温度が70度であるのに対し、標準的なエンジンはおよそ150度で作動する。そのため、これらは現在までに製造された中で最速クラスのエンジンだと言える。一方で、水冷モデルはこれまでに2基しか製造されていない。これは、より多くの台数が製造されれば、すでにテストされたものよりもさらに速い個体が見つかる可能性があることを示している。この革新がカートの世界を革命的に変えることになると信じてほしい」
こうした技術的な考察、そして1979年6月11日付で書かれた12ページに及ぶ第2の長文書簡は、セナの非常に内省的な精神性を浮き彫りにすると同時に、ライバルへの深い敬意も示している。セナは、後にマネージャーとなるカート時代のライバル、テリー・フラートンについて、両方の書簡で何度も言及している。彼はフラートンの戦術を称賛し、レースに対する姿勢や卓越性への共通した献身を高く評価していた。
セナは後年、フラートンを自身にとって最も手強いライバルだったと語っている。また、F1での成功は、カート時代に学んだレース精神と技術的能力に起因すると述べていた。この歴史的なコレクションには、セナとフラートンがレース中やオフトラックで写っている写真数点や、サイン入りの手紙も含まれており、セナの初期キャリアを物語る貴重な資料となっている。

フェラーリ創成期を語る、跳ね馬初の公式レターヘッド
同様に、エンツォ・フェラーリの書簡もまた、彼の名前が自動車業界で有名になる以前の時代に書かれたものだ。エンツォがこれらの手紙を書いていた当時、フェラーリはまだブランドメーカーと呼べる存在ではなかった。最も古い手紙は1948年に遡り、アルファロメオを離れてフェラーリを創設してからわずか1年後のものだ。当時のエンツォが持っていたのは、モデナにある控えめな工房、いくつかのレース参戦実績、そしてロードカーとしてのフェラーリ125 Sだけだった。
コレクションの最初の手紙は1948年3月11日付で、返事が遅れたことへの謝罪から始まる。エンツォは第二次世界大戦後初となるミッレミリアの準備に追われており、思うように書簡のやり取りができなかったと説明している。しかし、その返送先住所は、エンツォが本気で事業に取り組んでいたことを明確に示していた。
この3月11日の書簡は、1923年にパオリーナ・バラッカ伯爵夫人の好意によって生まれた跳ね馬のロゴをあしらった、史上初のフェラーリ公式レターヘッドであるとされている。手紙の内容は、史上初のロードゴーイング・フェラーリの取引条件に踏み込むものだった。
「あなたの提案は私にとって関心のあるものだ。ただし、必要な条件を明確にするためには、車両をどのような形でイタリアから輸出するつもりなのかを知る必要がある。競技イベントへの参加のための一時的なものなのか、それとも個人使用のために恒久的に輸出するのか。その点を教えてほしい。また、希望するボディ形状、あるいはシャシーのみを受け取ることを望むのかについても知らせてほしい」
その後、エンツォは返答を受け取り、最終的に初の本格的な市販フェラーリとなる166インテル・ランドを製作し、販売することになる。1948年3月20日付の書簡では、エンツォはこの車両を「国際スポーツカテゴリーのレーシングカー」と位置づけ、「2.5リッターV12エンジンを搭載し、165馬力を発生、最高速度は250km/hに達する」と説明している。これら2通の書簡では、エンツォが自らをフェラーリの代表として名乗っており、事業提案における形式性が強まっていることが読み取れる。
3月20日の書簡の末尾では、購入者に対して、車両が「納車可能な状態にあり、価格は625万イタリア・リラである」と伝えている。競売コレクターにとって特に重要なのは、両方の書簡にエンツォ直筆の署名が残されている点だ。短く曲線的なその署名は、公式フェラーリ・レターヘッドの存在と相まって、極めて高い価値を持つものとされている。

歴史そのものが競売にかけられる瞬間
これら2つのコレクションはいずれも高額での落札が予想されるが、それ以上に重要なのは、競売に先立ってこれらの資料を目にすることができる点だ。アイルトン・セナとエンツォ・フェラーリという2人の人物が持つ、深い歴史的意義を考えれば、その価値は計り知れない。
真の歴史に対する審美眼と、それを手にするだけの資金を持つ者にとって、12月11日の競売は見逃せない機会となるだろう。それぞれのコレクションの勝者はただ一人であり、その所有者もまた一人だけとなる。
カテゴリー: F1 / アイルトン・セナ / スクーデリア・フェラーリ
