角田裕毅 「僕の夢はF1ワールドチャンピオンになること」
ホンダF1とレッドブルのジュニアドライバーである角田裕毅は、2021年にアルファタウリ・ホンダでF1デビューを果たせば、小林可夢偉以来のF1に参戦する日本人ドライバーとなる。だが、F1デビューをすることだけが目的ではない。角田裕毅は「夢はF1ワールドチャンピオンになること」だと語る。
この数年間は角田裕毅にとって激動のシーズンだった。ヨーロッパに戦いの場を移して2年以内、FIA-F3への挑戦はシングルシーターでの経験がわずか3年でのものあり、サーキットの知識はほとんどなかった。
ホンダ・フォーミュラ・ドリーム・プロジェクトとレッドブルからのサポートを受け、角田裕毅はFIA-F3のルーキーシーズンの前半は目立たなかったが、新しい大陸とまったく新しいチャンピオンシップに順応していった。
当時はまだ角田裕毅に何を期待するかを知るのは困難だったが、2年後、彼はFIA-F2のタイトル争いの中心におり、レッドブルの姉妹チームであるアルファタウリ・ホンダF1のシートをめぐる噂の最前線にいる。彼はモータースポーツで最も優秀な若い才能の一人として名を馳せ、大胆で攻撃的でありながら、計算力と賢さを兼ね備えている。身長は160cmとグリッド上で最も背が低いドライバーだが、彼は他のどのドライバーよりも勇気がある。
神奈川で生まれた角田裕毅は、4歳の若さでゴーカートを始めた。父親から4輪か2輪かを尋ねられたときには躊躇うことなく前者を選んだ。ヨーロッパでは14歳でだが、日本の年齢制限によって彼は16歳になるまでカートに制限された。だが、FIA F4日本選手権にステップアップしてすぐに3位を獲得。この選手権では1位と2位に入れば、ホンダのジュニアチームと契約がご褒美として与えられることになっていた。
「彼らは1位と2位のドライバーを選ぶことになっていました」と角田裕毅は振り返る。
「通常、彼らはそうするのですが、それらのドライバーは僕より経験豊富ですでにF4で運転していました。F1でレースをしていた中嶋悟さんが担当し、ホンダに僕とも契約するよう勧めてくれました。最初はまだ公式にはフルのジュニアドライバーではなかったですけどね」
角田裕毅は日本でFIA F4日本選手権でさらに2シーズンを過ごし、3位、そして、チャンピオンを獲得した。その間、彼はホンダジュニアとして正式に確認された。その結果、ホンダが主催したハンガロリンクでのモトパークでの3日間のテストが行われ、角田裕毅はヨーロッパでのシートを勝ち取った。
しかし、提供された契約はこれだけではなかった。
「ヘルムート・マルコは結果を見て、僕をレッドブル・ジュニアにすることに決めました」と角田裕毅は振り返る。
「あのテストはこれまでの僕の人生で最大の瞬間の1つです。もし、あれがうまくいかなかったら、僕は今いるところにはいなかったでしょう。たぶんまだ日本にいたと思います」
レッドブルとホンダが角田裕毅をFIA-F3に参戦させたが、グランプリ週末にF1のサポートレースとして行われることは、角田裕毅にとって一か八かの賭けだった。
「日本では、パフォーマンスと競争力に自信を持っていましたが、これまでヨーロッパでレースをしたことはなく、経験もありませんでした」と角田裕毅は認めた。
「ヘルムートには、もしレッドブルジュニアになるなら、F3の他のドライバーと競争できなければならないと言われました。同じようなレベルでパフォーマンスを発揮する必要がありましたし、結果を出さなければなりませんでした」
「他のドライバーとデータを比較することもできたので、ハンガロリンクでのテストには自信がありましたが、実際にはどのトラックでもドライブしたことはありませんでした」
ホンダとレッドブルの育成ドライバー契約を勝ち取った角田裕毅は、2019年にヨーロッパへと活動拠点を移し、イェンツァー・モータースポーツのあるスイスに移住してFIA-F3に参戦する。序盤の結果はある程度の見込みを示したが、シーズン後半の活躍を予測できた人はほとんどいなかった。
序盤7戦では2回の入賞を果たしたのみだったが、それ以降の7戦では勝利と2つの表彰台を含めて7回の入賞を果たしている。
「最初は結果についてあまり考えていませんでした。とにかく懸命にプッシュして、どのように進んでいくかを見守っていました」と角田裕毅は語る。
「2019年のスパは僕にとって本当にターニングポイントでした。その週末、僕たちはアントワーヌ・ユベールを失うという悲劇が起こりました。彼はそれ以降の僕の結果に役割を果たしました。僕は彼から学んでいましたし、彼のためにレースをしました。彼の事故の後のレース2で、僕はそのシーズンで初めて表彰台を獲得しました」
「その後のモンツァでのラウンドで、もうひとつの表彰台と初勝利を挙げました。それは僕のドライビングパフォーマンスにとって本当にターニングポイントでした。ヘルムートに少し印象を与えることができました」
角田裕毅の英語力は、2年近く前にヨーロッパに移住して以降、劇的に上達した。もちろん、日本を恋しく思うと語る角田裕毅だが、元F2レーサーの牧野任祐や福住仁嶺と親しい友人であり、二人とオンラインでゲームをして息抜きをしていると語る。
フットボールの大ファンである角田裕毅は、常にボールをトラックに持ち込んでいる。かつて日本で地元の人々とフットサルをしていた角田裕毅は、オーストリアでのシーズン第1ラウンドに先立ってバイエルン・ミュンヘンのジャージを購入したことを振り返る。また、今年のバイエルンとパリ・サンジェルマンによるチャンピオンズリーグ決勝戦を観戦している。
「2つのビッグチームによるビッグマッチでした。ネイマールがいるパリ・サンジェルマンを応援していたのですが、バイエルン・ミュンヘンも好きですし、彼らは本当に強かったです」
何よりも注目を集めているのはオンライン版のフットボールで、角田裕毅はアメリカ版のFIFAではなく、日本製のPESプレイしている。
「レースから離れて、それから距離を置くことができる時間ですね」と角田裕毅は説明する。
「それはレースウィークになると集中することにも役立ちます。友達とPESをよくプレイしています。どのプレーヤーが優れているか、誰を見たらいいかを見つけるのに役立ちますね」
「たとえば、クリスティアーノ・ロナウドはシュートがとても上手で、リオネル・メッシはドリブルがとても上手です。たくさんプレイしているので、PESプレーヤーのデータにはかなり詳しいですよ…ラヒーム・スターリングは全力疾走とドリブルは得意ですが、シュートは得意ではありません」
FIA-F3をランキング9位で終えた角田裕毅は、1年でFIA-F2にサプライズともいえる昇格を果たし、イギリスを拠点とするカーリンで同じレッドブルの育成ドライバーであるジョハン・ダルバラと走る契約を結んだ。
当初はFIA-F3でもう一年走る必要があるかもしれないと考えられた角田裕毅だが、それが間違いであったことを証明する。
角田裕毅をFIA-F2にステップアップさせるという決定の背景には、同シリーズが18インチタイヤに切り替えることがあった。これにより、フィールドは平準化され、ルーキーが経験豊富なドライバーと同等になることが期待されていた。それは見逃すことのない機会だと考えられ、そして、裏付けられた。
「F2は僕の人生で最大の挑戦でした」と角田裕毅は笑顔で語る。
「でも、F3シーズンの初めよりも強くフィーリングを持ってシーズンに入ることができました。ペースも良く、チームも良かったですね」
シーズンに先立ち、20歳のち角田裕毅はイギリスのミルトンキーンズに引っ越した。ミルトンキーズンにはレッドブルのファクトリーがあり、サリーを拠点とするカーリンまで車で行ける距離にあった。それは、スイスから英国への移住はまた別のカルチャーショックだったと角田裕毅は語る
「日本からここに来るのは簡単ではありませんでした」と角田裕毅は続ける。
「最初にここに引っ越したときは食べ物に苦労しました。僕にとって日本食は本当に美味しいです。ヨーロッパに来たとき、それは同じではありませんでした。日本食が恋しいです」
「フィッシュ・アンド・チップスが好きですし、サツマイモのウェッジも好きですが、イギリス料理の大ファンではありません。ハモンや生ハムのようなイタリア料理とスペイン料理が大好きですが、僕にとっては日本食が一番です。ソーシャルメディアではいつもラーメンやお寿司の写真を見ていて、食べられないことに少しイライラしています」
「今シーズンの目標を達成したら、本当に美味しいお寿司を食べたいと思っています。それが僕のお祝いの方法です。お祝いのときの寿司の味は違います。まあまあシーズンを過ごして寿司を食べると、普通の味がします。良いニュースを聞いて寿司を食べると、同じお寿司でも味が違います。本当に美味しいお寿司と本物のラーメンを食べられるように頑張るつもりです」
だが、本当のターゲットは寿司を食べることではない。角田裕毅は今季F1スーパーライセンスを取得できれば、2021年にアルファタウリ・ホンダでF1デビューするチャンスが与えられることになる。
「ヘルムート(マルコ/レッドブル モータースポーツアドバイザー)から、今シーズンはうまくやらなければならない、スーパーライセンスを取得するために5位になる必要があると伝えられています」と角田裕毅は説明。
「彼は僕が5位ならば、F1でドライブする資格があると言っています。ですが、そうでなければ、再び日本でドライブする必要があるでしゅう」
「厳しいですが、彼に同意しています。ジョージ・ラッセル、ランド・ノリス、シャルル・ルクレールのような優れたドライバーであれば、F2で1年しか必要ないと思います。彼らには2~3年は必要ありませんでした」
現在、角田裕毅はFIA-F2で2勝、3回の表彰台を獲得してランキング3位につけている。それはF2への予想外のステップアップの性質を考えれば、注目に値する結果だ。
角田裕毅は、マックス・フェルスタッペンと同じようにモータースポーツ界でアイドルはいなかったが、その代わりに競争相手から少しずつ学んでいったと語る。F2の卒業生であるラッセル、ノリス、ルクレールの名前は、アントワーン・ユベールと同様に、ほぼ1時間のインタビューのなかで何度も登場した。
「彼は僕をより良いドライバーにしてくれました」と角田裕毅はアントワーヌ・ユベールについて語った。
「すべてのレースで大きなパフォーマンスを発揮する必要があります。それはプレッシャーですが、良いメンタリティでもあります。今年はそれほど悪くはありませんでしたが、今後どうなるか見ていきたいです。僕の夢はF1のワールドチャンピオンになることです。F2で苦労しているようでは、それは実際には難しいでしょう」
最近、角田裕毅は、イモラ・サーキットでアルファタウリ・ホンダの2年落ちのマシンをテスト。約350kmを走行し、フリー走行限定のF1スーパーライセンスの資格を満たし、シーズン終了までにFP1でアルファタウリ・ホンダのマシンを走らせる可能性がある。また、12月のアブダビGP後にヤス・マリーナ・サーキットで開催される若手ドライバーテストにアルファタウリ・ホンダから参加することが計画されている。
「ご存知のように、日本のファンは日本人ドライバーがF1に参戦するのを待っています。それはソーシャルメディアから見ることができます。日本からのプレッシャーがありますが、それは悪いプレッシャーではなく、良いプレッシャーです。彼らは日本人F1ドライバーを待っています。そして、僕はそれを達成するために最も近い一人です。彼らのために実現したいと思っています」
カテゴリー: F1 / 角田裕毅 / レッドブル・レーシング / ホンダF1 / スクーデリア・アルファタウリ
この数年間は角田裕毅にとって激動のシーズンだった。ヨーロッパに戦いの場を移して2年以内、FIA-F3への挑戦はシングルシーターでの経験がわずか3年でのものあり、サーキットの知識はほとんどなかった。
ホンダ・フォーミュラ・ドリーム・プロジェクトとレッドブルからのサポートを受け、角田裕毅はFIA-F3のルーキーシーズンの前半は目立たなかったが、新しい大陸とまったく新しいチャンピオンシップに順応していった。
当時はまだ角田裕毅に何を期待するかを知るのは困難だったが、2年後、彼はFIA-F2のタイトル争いの中心におり、レッドブルの姉妹チームであるアルファタウリ・ホンダF1のシートをめぐる噂の最前線にいる。彼はモータースポーツで最も優秀な若い才能の一人として名を馳せ、大胆で攻撃的でありながら、計算力と賢さを兼ね備えている。身長は160cmとグリッド上で最も背が低いドライバーだが、彼は他のどのドライバーよりも勇気がある。
神奈川で生まれた角田裕毅は、4歳の若さでゴーカートを始めた。父親から4輪か2輪かを尋ねられたときには躊躇うことなく前者を選んだ。ヨーロッパでは14歳でだが、日本の年齢制限によって彼は16歳になるまでカートに制限された。だが、FIA F4日本選手権にステップアップしてすぐに3位を獲得。この選手権では1位と2位に入れば、ホンダのジュニアチームと契約がご褒美として与えられることになっていた。
「彼らは1位と2位のドライバーを選ぶことになっていました」と角田裕毅は振り返る。
「通常、彼らはそうするのですが、それらのドライバーは僕より経験豊富ですでにF4で運転していました。F1でレースをしていた中嶋悟さんが担当し、ホンダに僕とも契約するよう勧めてくれました。最初はまだ公式にはフルのジュニアドライバーではなかったですけどね」
角田裕毅は日本でFIA F4日本選手権でさらに2シーズンを過ごし、3位、そして、チャンピオンを獲得した。その間、彼はホンダジュニアとして正式に確認された。その結果、ホンダが主催したハンガロリンクでのモトパークでの3日間のテストが行われ、角田裕毅はヨーロッパでのシートを勝ち取った。
しかし、提供された契約はこれだけではなかった。
「ヘルムート・マルコは結果を見て、僕をレッドブル・ジュニアにすることに決めました」と角田裕毅は振り返る。
「あのテストはこれまでの僕の人生で最大の瞬間の1つです。もし、あれがうまくいかなかったら、僕は今いるところにはいなかったでしょう。たぶんまだ日本にいたと思います」
レッドブルとホンダが角田裕毅をFIA-F3に参戦させたが、グランプリ週末にF1のサポートレースとして行われることは、角田裕毅にとって一か八かの賭けだった。
「日本では、パフォーマンスと競争力に自信を持っていましたが、これまでヨーロッパでレースをしたことはなく、経験もありませんでした」と角田裕毅は認めた。
「ヘルムートには、もしレッドブルジュニアになるなら、F3の他のドライバーと競争できなければならないと言われました。同じようなレベルでパフォーマンスを発揮する必要がありましたし、結果を出さなければなりませんでした」
「他のドライバーとデータを比較することもできたので、ハンガロリンクでのテストには自信がありましたが、実際にはどのトラックでもドライブしたことはありませんでした」
ホンダとレッドブルの育成ドライバー契約を勝ち取った角田裕毅は、2019年にヨーロッパへと活動拠点を移し、イェンツァー・モータースポーツのあるスイスに移住してFIA-F3に参戦する。序盤の結果はある程度の見込みを示したが、シーズン後半の活躍を予測できた人はほとんどいなかった。
序盤7戦では2回の入賞を果たしたのみだったが、それ以降の7戦では勝利と2つの表彰台を含めて7回の入賞を果たしている。
「最初は結果についてあまり考えていませんでした。とにかく懸命にプッシュして、どのように進んでいくかを見守っていました」と角田裕毅は語る。
「2019年のスパは僕にとって本当にターニングポイントでした。その週末、僕たちはアントワーヌ・ユベールを失うという悲劇が起こりました。彼はそれ以降の僕の結果に役割を果たしました。僕は彼から学んでいましたし、彼のためにレースをしました。彼の事故の後のレース2で、僕はそのシーズンで初めて表彰台を獲得しました」
「その後のモンツァでのラウンドで、もうひとつの表彰台と初勝利を挙げました。それは僕のドライビングパフォーマンスにとって本当にターニングポイントでした。ヘルムートに少し印象を与えることができました」
角田裕毅の英語力は、2年近く前にヨーロッパに移住して以降、劇的に上達した。もちろん、日本を恋しく思うと語る角田裕毅だが、元F2レーサーの牧野任祐や福住仁嶺と親しい友人であり、二人とオンラインでゲームをして息抜きをしていると語る。
フットボールの大ファンである角田裕毅は、常にボールをトラックに持ち込んでいる。かつて日本で地元の人々とフットサルをしていた角田裕毅は、オーストリアでのシーズン第1ラウンドに先立ってバイエルン・ミュンヘンのジャージを購入したことを振り返る。また、今年のバイエルンとパリ・サンジェルマンによるチャンピオンズリーグ決勝戦を観戦している。
「2つのビッグチームによるビッグマッチでした。ネイマールがいるパリ・サンジェルマンを応援していたのですが、バイエルン・ミュンヘンも好きですし、彼らは本当に強かったです」
何よりも注目を集めているのはオンライン版のフットボールで、角田裕毅はアメリカ版のFIFAではなく、日本製のPESプレイしている。
「レースから離れて、それから距離を置くことができる時間ですね」と角田裕毅は説明する。
「それはレースウィークになると集中することにも役立ちます。友達とPESをよくプレイしています。どのプレーヤーが優れているか、誰を見たらいいかを見つけるのに役立ちますね」
「たとえば、クリスティアーノ・ロナウドはシュートがとても上手で、リオネル・メッシはドリブルがとても上手です。たくさんプレイしているので、PESプレーヤーのデータにはかなり詳しいですよ…ラヒーム・スターリングは全力疾走とドリブルは得意ですが、シュートは得意ではありません」
FIA-F3をランキング9位で終えた角田裕毅は、1年でFIA-F2にサプライズともいえる昇格を果たし、イギリスを拠点とするカーリンで同じレッドブルの育成ドライバーであるジョハン・ダルバラと走る契約を結んだ。
当初はFIA-F3でもう一年走る必要があるかもしれないと考えられた角田裕毅だが、それが間違いであったことを証明する。
角田裕毅をFIA-F2にステップアップさせるという決定の背景には、同シリーズが18インチタイヤに切り替えることがあった。これにより、フィールドは平準化され、ルーキーが経験豊富なドライバーと同等になることが期待されていた。それは見逃すことのない機会だと考えられ、そして、裏付けられた。
「F2は僕の人生で最大の挑戦でした」と角田裕毅は笑顔で語る。
「でも、F3シーズンの初めよりも強くフィーリングを持ってシーズンに入ることができました。ペースも良く、チームも良かったですね」
シーズンに先立ち、20歳のち角田裕毅はイギリスのミルトンキーンズに引っ越した。ミルトンキーズンにはレッドブルのファクトリーがあり、サリーを拠点とするカーリンまで車で行ける距離にあった。それは、スイスから英国への移住はまた別のカルチャーショックだったと角田裕毅は語る
「日本からここに来るのは簡単ではありませんでした」と角田裕毅は続ける。
「最初にここに引っ越したときは食べ物に苦労しました。僕にとって日本食は本当に美味しいです。ヨーロッパに来たとき、それは同じではありませんでした。日本食が恋しいです」
「フィッシュ・アンド・チップスが好きですし、サツマイモのウェッジも好きですが、イギリス料理の大ファンではありません。ハモンや生ハムのようなイタリア料理とスペイン料理が大好きですが、僕にとっては日本食が一番です。ソーシャルメディアではいつもラーメンやお寿司の写真を見ていて、食べられないことに少しイライラしています」
「今シーズンの目標を達成したら、本当に美味しいお寿司を食べたいと思っています。それが僕のお祝いの方法です。お祝いのときの寿司の味は違います。まあまあシーズンを過ごして寿司を食べると、普通の味がします。良いニュースを聞いて寿司を食べると、同じお寿司でも味が違います。本当に美味しいお寿司と本物のラーメンを食べられるように頑張るつもりです」
だが、本当のターゲットは寿司を食べることではない。角田裕毅は今季F1スーパーライセンスを取得できれば、2021年にアルファタウリ・ホンダでF1デビューするチャンスが与えられることになる。
「ヘルムート(マルコ/レッドブル モータースポーツアドバイザー)から、今シーズンはうまくやらなければならない、スーパーライセンスを取得するために5位になる必要があると伝えられています」と角田裕毅は説明。
「彼は僕が5位ならば、F1でドライブする資格があると言っています。ですが、そうでなければ、再び日本でドライブする必要があるでしゅう」
「厳しいですが、彼に同意しています。ジョージ・ラッセル、ランド・ノリス、シャルル・ルクレールのような優れたドライバーであれば、F2で1年しか必要ないと思います。彼らには2~3年は必要ありませんでした」
現在、角田裕毅はFIA-F2で2勝、3回の表彰台を獲得してランキング3位につけている。それはF2への予想外のステップアップの性質を考えれば、注目に値する結果だ。
角田裕毅は、マックス・フェルスタッペンと同じようにモータースポーツ界でアイドルはいなかったが、その代わりに競争相手から少しずつ学んでいったと語る。F2の卒業生であるラッセル、ノリス、ルクレールの名前は、アントワーン・ユベールと同様に、ほぼ1時間のインタビューのなかで何度も登場した。
「彼は僕をより良いドライバーにしてくれました」と角田裕毅はアントワーヌ・ユベールについて語った。
「すべてのレースで大きなパフォーマンスを発揮する必要があります。それはプレッシャーですが、良いメンタリティでもあります。今年はそれほど悪くはありませんでしたが、今後どうなるか見ていきたいです。僕の夢はF1のワールドチャンピオンになることです。F2で苦労しているようでは、それは実際には難しいでしょう」
最近、角田裕毅は、イモラ・サーキットでアルファタウリ・ホンダの2年落ちのマシンをテスト。約350kmを走行し、フリー走行限定のF1スーパーライセンスの資格を満たし、シーズン終了までにFP1でアルファタウリ・ホンダのマシンを走らせる可能性がある。また、12月のアブダビGP後にヤス・マリーナ・サーキットで開催される若手ドライバーテストにアルファタウリ・ホンダから参加することが計画されている。
「ご存知のように、日本のファンは日本人ドライバーがF1に参戦するのを待っています。それはソーシャルメディアから見ることができます。日本からのプレッシャーがありますが、それは悪いプレッシャーではなく、良いプレッシャーです。彼らは日本人F1ドライバーを待っています。そして、僕はそれを達成するために最も近い一人です。彼らのために実現したいと思っています」
カテゴリー: F1 / 角田裕毅 / レッドブル・レーシング / ホンダF1 / スクーデリア・アルファタウリ