ポルシェ
ポルシェのワークスチームによる919ハイブリッドでのル・マン24時間レースへの復帰のカウントダウンは、6月14日、15日に向けてすでに始まっている。

世界最高峰ともいえるモータースポーツイベントでの16回の総合優勝というポルシェの記録は、未だに破られていない。

ル・マンではテクノロジーだけで勝敗が決まる訳ではない。今回ご紹介するエピソードが、この耐久レースで勝つことの難しさを物語っている。

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ジャッキー・イクス
(ポルシェでの総合優勝4回、合計6回優勝):
「3時間経過した時点で、このレースでは勝てないと思いました。私の936はリタイヤし、ユルゲン・バルトとハーレイ・ヘイウッドに合流しました。しかし、彼らもまたトラブルを抱えており、私達は42位でした。今でも次に何が起こったかよくわかりません。陶酔状態だったのです。私は一晩中最高速で走行し、常に限界でした。雨が降り、霧も出ましたが、どんどん速さを増しました。42位、35位、28位、20位、9位、6位、5位。誰もが想像もできないことを達成できると感じていました。ユルゲンとハーレイは、それまで以上の速さでドライビングし、メカニック達は驚くような仕事をしました。私は全く疲れを感じませんでした。そして首位に立ったのです。日曜の朝には完全に消耗し切っていました。最後には、ユルゲンが5気筒になった936で何とかフィニッシュラインを通過しました。私だったらできなかったでしょう。数多くのレースに、多くのすばらしい物語があります。しかし、1977年は群を抜いています。あれは、一生に一度の出来事です。あのようなレースが、ポルシェを伝説にしたのです」

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ハンス・ヘルマン
(1970年にポルシェで総合優勝):
「1969年、私はジャッキー・イクスと最後の1時間半、各周回で抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げた末、敗れました。1970年、フェルディナンド・ピエヒが、よりパワフルなエンジンで優勝を狙えるよう取り計らってくれました。髪の毛1本の差で負けた翌年に勝利できたのは、言うまでもなく格別な体験でした。そして、あれはポルシェにとっての初優勝であり、私にとっての最後のレースでもありました。私は妻に約束していたのです。彼女は、その1年か2年前から私に引退するよう強く求めていました。多くの友人を失っていたからです。私自身もわかっていました。ずっと幸運でいられるという理由は全くなく、いつか運が尽きる日が来るということを。1970年にこれらの条件が全て揃ったのは、非常に感動的でした。涙を流したかどうかは覚えていません。きっと涙を流していたでしょうね。感激屋ですから」

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リチャード・アトウッド
(1970年にポルシェで総合優勝):
「私達は、奇妙な状況で勝ちました。2月、当時の開発担当役員だったヘルムート・ボットが、ル・マン24時間レース用にどんなクルマが欲しいか尋ねました。私は彼に3つのことを挙げました。まず5リッターエンジンではなく、4.5リッター12気筒エンジンが必要だと話しました。それは、5リッターエンジンは信頼性が劣ると考えていたからです。2つ目として、私は917の「Kurzheck」(ショートテール)バージョンが良いと言いました。ロングテールバージョンは、あまりにも安定性に欠けていたからです。3つ目として、ハンス・ヘルマンをパートナーにして欲しいという条件を出しました。彼は耐久レースを走り切るために、どのようにクルマと自分のペースを合わせなければならないかを知っていたからです。これら全てを得ましたが、予選結果は15位でした。その時点で、人生で最悪のミスをしたと思いました。5リッターエンジンに対して勝ち目はないと思ったのです。私達には競争力がなく、上位グループにトラブルが起こるようひたすら願うことしかできませんでした。そして見事にそうなり、私たちは優勝したのです」

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ペーター・ファルク
(ポルシェのレース監督として総合優勝7回):
「1987年、ル・マンでいつも通り3台の投入を予定し、スペアカーとして4台目の962を製作しました。当時は、フランス入りする前に、ヴァイザッハでドライバーが全ての車両をテストドライブするのが普通でした。そのとき、ハンス=ヨアヒム・スタックが1台を修理不能なまでに損傷しました。よって私達は車両が3台しかない状態でル・マンに臨みました。ところがフリープラクティス中に、プライス・コブが重大なアクシデントに見舞われました。これにより、手持ちの車両は2台になってしまいました。そしてその2台でレースに臨んだのです。1時間もしないうちに、ヨッヘン・マスがピットに戻りました。エンジンが壊れてしまいました。多分ピストンに穴が開いたのだと思います。その結果、残り1台になってしまいました …。まだレースは23時間も残っているのに、シュトゥック/デレック・ベル/アル・ホルバート組の962だけが頼りでした。レースディレクターとしての私とチーム全体にとって、状況は非常に疲れるものでありながら、元気が出るものでもありました。1台のクルマしかなくて、どうなるのだろう?と思っていましが、結果は上々でした。私達は優勝したのです」

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ノルベルト・ジンガー
(プロジェクトのトップとして総合優勝9回):
「表彰台を独占したのは、すばらしい瞬間でした。レースには慎重に臨みました。956は完全なニューマシンだったからです。レースは、毎回勝ちに行ける訳ではありませんし、動向を見守る必要があります。24時間を完走するのは容易ではありません。私達は非常に真剣に仕事に取り組んでいましたが、1982年の勝利は完璧で、少し驚きでもありました。その数年前には手痛いミスを犯していました。1979年、エルンスト・フールマンがまだポルシェに居て、私達エンジニアに『今年、ル・マンに出ると言ったらどう思う?ライバルなどいないも同然なのだが」と質問してきました。基本的に現地に行って、優勝を持ち帰るだけのようなものと思っていました。その結果どうなったか?1台も完走できなかったのです。ライバルがいないのに敗北を喫したのです。自分の足に躓くことがあるのです。それを経験していた分、あの優勝は私にとって非常に嬉しいものでした。そのときの956は、ミュージアムに直行しました。あの天井から吊り下げられているクルマですよ」

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ジィズ・ヴァン・レネップ
(ポルシェで1971年と1976年に総合優勝):
「初めての総合優勝のことはもちろん忘れることができません。ヘルムート・マルコと私が、ポルシェ917 ショートテールを駆りました。超軽量のマグネシウムチューブラーが導入されていたことは後で知りました。チームは私達を不安にさせたくなかったのです。ル・マンは特別で刺激的なレースです。ル・マンの優勝を他に例えることはできません。それは優勝だけでなく、1971年の炎上の映像が記憶に残っています。今でも度々、そのときの映像がよみがえります。それは夜であり、ミュルサンヌストレートを350 km/h以上で飛ばしていました。そのとき炎が見え、燃料がサーキット上に流れていました。幸いなことに炎上した小排気量クラスの車はコースの脇にすでに停車していました。さらに運良く私にはそのとき戦う相手はなく、つまり他の車を追い抜く必要はありませんでした。イエローフラッグが見えて、歩くほどの速度で事故の脇を通り過ぎました」

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マンフレッド・ヤンケ
(1972年〜1991年のポルシェスポーツ監督およびPR部長):
「サルトサーキットの周囲は概ね生活がゆったりとしており、そこに年1回世界最速の車が集います。スピードが全てを支配し、興奮、エンジン音、そして危険に包まれます。ドライバーは、この対照的な空気の中で同様の体験をしました。監督として、度々コーナーで、ドライバーに目を覚ますように注意を喚起しました。それは特別な瞬間で、大きな個人差がありました。肉体的に最強のドライバーは確実にヨッヘン・マスでした。彼は疲れを知らず、ほとんど睡眠を必要としませんでした。ジャッキー・イクスは、注意を促すと常にすぐに反応しました。しかし中には反応が鈍く、疲労による深い眠りからたたき起こさねばならないドライバーもいました。彼らは操作が必要となる前に、かろうじて意識を取り戻しました。しかし当時は、車のエンジン音が信じられないほど大きかったのです。天国から地獄に移されたような感じがしたに違いありません」

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ルディ・リンス
(1964年〜1971年にポルシェをドライブ):
「ル・マンに3度出場し、記憶にもっとも残っているのは1970年です。ヘルムート・マルコと一緒にポルシェ908を駆り、プロトタイプとスポーツカークラスで優勝し、総合で3位に入りました。その夜は土砂降りの雨が何時間も降り続きました。経験したことがない人には、ル・マンのドライバーにとってそれが何を意味するのかを想像するのは難しいでしょう。追い越すには、まず水しぶきの中に飛び込む必要があります。視界が悪いので水しぶきの向こうに1台いるのか2台いるのか検討がつきません。ハンス・ヘルマンと同じタイミングでナイトセッションにドライブしていたとき、周りの状況がまったく見えませんでしたが、彼が周りにいてくれたことは検討がつきました。ヘルムート・マルコと私は、車がオープンだったということもあって、コーナーを出るとずぶ濡れでした。汗でなければ雨のせいでした。当時の私は弱冠25歳の若手でした」

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ハンス=ヨアヒム・シュトゥック
(ポルシェで1986年と1987年に総合優勝):
「私にとってのル・マンでもっとも輝かしい瞬間は3分14秒8続きました。ポルシェ962 Cによるポールポジションは完璧なラップでした。現在、ミュルサンヌストレートはシケインが追加されて減速を余儀なくされているので、後世に残る記録となるでしょう。962はかつて乗ったマシンのなかで最高のレーシングカーでした。強大なパワーと信じがたいグラウンドエフェクトを備えていました。横Gが大きく、パワーステアリングは装備されていなかったため、クマ並みの力と相当な勇気が必要でした。962Cをレース前にドライブしたのはタイヤテストのためのたった1度だけでした。スタート、ダンロップカーブ、左、右、エセスを抜け、テルトルルージュで、トラクションの限界に挑みました。ミュルサンヌストレートで速度を上げるためにはコーナーが非常に重要で、思った通りに運びました。50秒で通過した後、360 km/hから減速してミュルサンヌコーナーを抜け、素早く全開で立ち上がりました。インディアナポリス、アルナージュ、ポルシェカーブ、メゾンブランシュ、フォードシケインで完了です。この3分間、私の集中力はナイフのように鋭敏になっていました。それがル・マンにおける私とポルシェでした」

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カテゴリー: F1 / ポルシェ / ル・マン24時間レース