井上隆智穂=タキ井上のレーシングキャリア
元F1ドライバーの井上隆智穂が、自身のモーターレーシングでのキャリアを語った。
タキ井上こと井上隆智穂は、1985年に富士フレッシュマン・ツーリングカーシリーズでモーターレーシングのキャリアをスタートさせる。
そして、1987年に井上隆智穂はイギリスに渡ることを決意。スネッタートンのジム・ラッセル・レーシングスクールに入学し、翌年、フォーミュラフォードに参戦した。
井上隆智穂は渡英は「2段階だった」と当時を振り返る。
「1988年にフォーミュラフォード1600に参戦するためにイギリスに渡ったが、あれは愚かな決断だった。素晴らしいドライバーがたくさんいたからね」と井上隆智穂は語る。
「その後、アルゴのF3マシンをテストし、1989年に戻る予定だった。しかし、例によって資金を調達することができなかった」
「日本のF3でレーシングキャリアを続け、1993年になって初めて再びヨーロッパに戻ることを考え始めた。そして1994年、スーパーノヴァからF3000に参戦した」
だが、翌シーズンに向けて、スーパーノヴァはブラジル人ドライバーのリカルド・ロセットとすでに契約を交わしており、“高齢でお手上げ状態”の井上隆智穂は自らのレースシート確保を諦めた。
だが、井上隆智穂の無私の決断と複数のスポンサーの支援が実り、長年の夢であったF1参戦を実現させることになる。
井上隆智穂は、シムテックのチーム代表ニック・ワースとの話し合いがカタロニア・サーキットでのテストに繋がり、1994年に鈴鹿サーキットでF1日本GPでシムテックからF1デビューを果たした。
「シムテックのニック・ワースと話をした。バルセロナでのテスト中にタイヤが2〜3セット残っていると言っていたので、クルマに乗った。確か20周、せいぜい30周ほど走行した」
「日本でのレースについては準備が整っていなかった! でも、あの当時は完璧な状況など存在しなかった。今は多くのテストや開発がドライバーに用意されており、レースに対するアプローチが異なっている。あの時は本物のレースだったと思う」
F1日本GPで、井上隆智穂は予選で約8秒の差をつけられて最後尾からレースをスタート。そしてわずか3周後に酷い路面コンディションに足をすくわれてピットウォールに激突。井上隆智穂のF1デビューウィークエンドは幕を閉じた。
アデレードで行われた最終戦では、ドメニコ・スキャッタレーラがステアリングを握り、井上隆智穂はF1残留をかけた戦いを行っていた。
「とてもラッキーだった」と井上隆智穂は1995年のレースシート確保について述べた
「ラルースは散々だったし、アロウズは苦戦していた。ジェラール・ラルースと話をした時、彼は『タキ、倒産してしまうからうちには来ないでくれ』と言ったので『わかった。ありがとう』と答えたよ(笑」
「その後、シムテックと話をしたが、彼らも『来ないでくれ。モナコまでの予算しかなく、それで終わりだ』と言っていた。その時、ロータスも選択肢に入っていた。だが、もうおわかりだろう。彼らも『タキ、来ないでくれ。倒産してしまう』と言っていた。そしてフットワークだけが残った」
「当時チームにいたジャッキー・オリバーは『歓迎する。問題ない』と言った」
1995年の井上隆智穂の戦績は、最高位8位、リタイア12回とF1史に残るものではなかったが、彼の存在は2回の“珍事”によって記憶に焼き付けられることになる。
F1モナコGPでは、井上隆智穂の乗ったクルマがレッカー車に牽引されてピットに戻る際、ジャン・ラニョッティがドライブしていたオフィシャルカーに追突され横転した。井上隆智穂はヘルメットを被っていたため難を逃れることができた。
その数週間後のF1ハンガリーGPでは、出火したフットワークのクルマを消火器で消火しようとした際にセーフティーカーに撥ねられた。
「本当に痛かったよ」と井上隆智穂はF1ハンガリーGPでの事故を振り返った。
「ピットウォールのモニターを見ていたジャッキーは、僕が足を骨折したと思い、僕の替わりとして他のドライバーに声をかけ始めていた」
「僕はメディカルセンターに運ばれ、彼らは直ちにブダペストの病院に僕を搬送しようとした。その時、新しいヘリコプターがあったので、すぐに病院に搬送されると思っていた。バンクマネージャーが現れ、『これから病院に行く。そこで会おう』と言っていた」
「しかし、チャーリー・ホワイティングがやってきて『ヘリコプターは使えない。さもなければレースを中断しなければならない』と言った。だから、レースが終わるのを待たなければならなかった!」
井上隆智穂は、1996年のミナルディのレースシートを確保していたが、スポンサーの撤退により彼のF1キャリアは幕を閉じた。
2002年、井上隆智穂は、F3000時代にスーパーノヴァ・レーシングでチームメイトだったヴィンセンツォ・ソスピリと“ユーロノヴァ・レーシング」を設立。ジュニア・カテゴリーで若手ドライバーをサポートしている。
先週は、同チームからAUTO GPに参戦する佐藤公哉がザウバーから若手ドライバーテストに参加。井上隆智穂はヴィンセンツォ・ソスピリとともにシルバーストンを訪れ、佐藤公哉のF1初走行を見守った。
「心配しないでほしい。クルマの運転の仕方は決して教えない!」
関連:ユーロノヴァ・レーシング
カテゴリー: F1 / F1関連
タキ井上こと井上隆智穂は、1985年に富士フレッシュマン・ツーリングカーシリーズでモーターレーシングのキャリアをスタートさせる。
そして、1987年に井上隆智穂はイギリスに渡ることを決意。スネッタートンのジム・ラッセル・レーシングスクールに入学し、翌年、フォーミュラフォードに参戦した。
井上隆智穂は渡英は「2段階だった」と当時を振り返る。
「1988年にフォーミュラフォード1600に参戦するためにイギリスに渡ったが、あれは愚かな決断だった。素晴らしいドライバーがたくさんいたからね」と井上隆智穂は語る。
「その後、アルゴのF3マシンをテストし、1989年に戻る予定だった。しかし、例によって資金を調達することができなかった」
「日本のF3でレーシングキャリアを続け、1993年になって初めて再びヨーロッパに戻ることを考え始めた。そして1994年、スーパーノヴァからF3000に参戦した」
だが、翌シーズンに向けて、スーパーノヴァはブラジル人ドライバーのリカルド・ロセットとすでに契約を交わしており、“高齢でお手上げ状態”の井上隆智穂は自らのレースシート確保を諦めた。
だが、井上隆智穂の無私の決断と複数のスポンサーの支援が実り、長年の夢であったF1参戦を実現させることになる。
井上隆智穂は、シムテックのチーム代表ニック・ワースとの話し合いがカタロニア・サーキットでのテストに繋がり、1994年に鈴鹿サーキットでF1日本GPでシムテックからF1デビューを果たした。
「シムテックのニック・ワースと話をした。バルセロナでのテスト中にタイヤが2〜3セット残っていると言っていたので、クルマに乗った。確か20周、せいぜい30周ほど走行した」
「日本でのレースについては準備が整っていなかった! でも、あの当時は完璧な状況など存在しなかった。今は多くのテストや開発がドライバーに用意されており、レースに対するアプローチが異なっている。あの時は本物のレースだったと思う」
F1日本GPで、井上隆智穂は予選で約8秒の差をつけられて最後尾からレースをスタート。そしてわずか3周後に酷い路面コンディションに足をすくわれてピットウォールに激突。井上隆智穂のF1デビューウィークエンドは幕を閉じた。
アデレードで行われた最終戦では、ドメニコ・スキャッタレーラがステアリングを握り、井上隆智穂はF1残留をかけた戦いを行っていた。
「とてもラッキーだった」と井上隆智穂は1995年のレースシート確保について述べた
「ラルースは散々だったし、アロウズは苦戦していた。ジェラール・ラルースと話をした時、彼は『タキ、倒産してしまうからうちには来ないでくれ』と言ったので『わかった。ありがとう』と答えたよ(笑」
「その後、シムテックと話をしたが、彼らも『来ないでくれ。モナコまでの予算しかなく、それで終わりだ』と言っていた。その時、ロータスも選択肢に入っていた。だが、もうおわかりだろう。彼らも『タキ、来ないでくれ。倒産してしまう』と言っていた。そしてフットワークだけが残った」
「当時チームにいたジャッキー・オリバーは『歓迎する。問題ない』と言った」
1995年の井上隆智穂の戦績は、最高位8位、リタイア12回とF1史に残るものではなかったが、彼の存在は2回の“珍事”によって記憶に焼き付けられることになる。
F1モナコGPでは、井上隆智穂の乗ったクルマがレッカー車に牽引されてピットに戻る際、ジャン・ラニョッティがドライブしていたオフィシャルカーに追突され横転した。井上隆智穂はヘルメットを被っていたため難を逃れることができた。
その数週間後のF1ハンガリーGPでは、出火したフットワークのクルマを消火器で消火しようとした際にセーフティーカーに撥ねられた。
「本当に痛かったよ」と井上隆智穂はF1ハンガリーGPでの事故を振り返った。
「ピットウォールのモニターを見ていたジャッキーは、僕が足を骨折したと思い、僕の替わりとして他のドライバーに声をかけ始めていた」
「僕はメディカルセンターに運ばれ、彼らは直ちにブダペストの病院に僕を搬送しようとした。その時、新しいヘリコプターがあったので、すぐに病院に搬送されると思っていた。バンクマネージャーが現れ、『これから病院に行く。そこで会おう』と言っていた」
「しかし、チャーリー・ホワイティングがやってきて『ヘリコプターは使えない。さもなければレースを中断しなければならない』と言った。だから、レースが終わるのを待たなければならなかった!」
井上隆智穂は、1996年のミナルディのレースシートを確保していたが、スポンサーの撤退により彼のF1キャリアは幕を閉じた。
2002年、井上隆智穂は、F3000時代にスーパーノヴァ・レーシングでチームメイトだったヴィンセンツォ・ソスピリと“ユーロノヴァ・レーシング」を設立。ジュニア・カテゴリーで若手ドライバーをサポートしている。
先週は、同チームからAUTO GPに参戦する佐藤公哉がザウバーから若手ドライバーテストに参加。井上隆智穂はヴィンセンツォ・ソスピリとともにシルバーストンを訪れ、佐藤公哉のF1初走行を見守った。
「心配しないでほしい。クルマの運転の仕方は決して教えない!」
関連:ユーロノヴァ・レーシング
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