F1マシン列伝:マクラーレン・ホンダ MP4/4 “F1黄金時代の象徴”
マクラーレンの1998年F1マシン『マクラーレン・ホンダ MP4/4』は、16戦15勝という圧倒的な強さ、セナプロ対決の名バトルなど、F1黄金時代を象徴する1台として歴史に名が刻まれている。
ホンダのF1エンジンが独走状態となったことで、FIA(国際自動車連盟)は1988年限りでターボを禁止し、1989年からの3.5リッター 自然吸気エンジンを導入することを決定した。
ターボ最終年となった1988年は、F1エンジンのパワー規制はさらに厳しくなり、ブースト圧は4バールから2.5バールに、レース中の燃料使用量は195リッターから150リッターに引き下げられた。しかし、ホンダはこの条件を逆手にとり、低燃費技術を駆使して他のエンジンメーカーを圧倒した。
当初、マクラーレンは、テクニカルディレクターであったジョン・バーナードがデザインした前年マシン『MP4/3』をリファインして使用する予定だったが、レギュレーション変更によってドライバーの足を前車軸より後ろに下げる規定が定められたこと、またブラバムからゴードン・マレーが加入していたことなどが重なり、白紙の状態からデザインされた。マクラーレン・ホンダ MP4/4は、MP4/3までの大柄なスタイルから一変し、マレーが2年前に設計した『フラットフィッシュ』の異名をとったブラバム BT55のような、全高が低く、ドラッグが少ないデザインとなった。
リアウイングへ効率よく空気を流すためサイドポッドが低く絞り込まれたデザインを実現するため、ホンダF1はエンジンのクランクシャフトの位置を下げ、ギアボックスのクラッチプレートを小径化するなどの改良を施した。
マクラーレン・ホンダ MP4/4は、16戦中15勝、10度にわたる1-2フィニッシュなど、数々の記録を塗り替えた。唯一、両ドライバーがリタイアしたイタリアGPでフェラーリのゲルハルト・ベルガーに優勝をさらわれ、シーズン完全制覇はならなかったが、マクラーレンMP4/4が史上最強のマシンだったことは明らかだ。
アラン・プロストとアイルトン・セナの両マクラーレンドライバーによって争われたドライバーズチャンピオン争いは、7勝のプロストに対し8勝を挙げたセナのものとなった。セナにとっては初のドライバーズタイトルとなった。獲得総ポイントではプロストが105ポイント、セナが94ポイントと、プロストが上回るが、有効ポイント制によりベスト11戦のリザルトが有効とされた(セナが90ポイント、プロストが87ポイント)。
当時ホンダF1のエンジニアを務めた市田勝巳は「世界一になるためには世界一のドライバーと組むこと。そうして挑んできたおかげで、彼らからマシン熟成のために貴重なアドバイスをたくさん受けてきました。彼らは人間的にも非常に豊かな感性を持っており、勝てないで落ち込んでいるメカニックたちをクルーザーに招待して、楽しませてくれたりしました。心のつながりも非常に大きかったですね。そうした彼らの人間性もマスコミを通じて日本人に浸透し、F1の人気も高まってきたんでしょうね」と語る。
前述のとおり、翌1989年よりレギュレーション変更でターボが禁止に。この時点でホンダ内部では初期目標の達成とターボエンジン開発の終了から、参戦休止という意見も出ていたが、本田宗一郎は「ターボ禁止はホンダだけか? 全チームが同じ条件で戦うのならばいいじゃないか。それでこそ、ヨーロッパの人たちに評価されるじゃないか」と意見した。
結果的にはホンダF1は、厳しい燃料制限を克服するために3.5リッター自然吸気エンジンを開発し、参戦は継続された。そして、ダブルチャンピオンは1991年まで5年連続で続くこととなる。91年にはマクラーレンへV12エンジン、ティレルへV10エンジンとタイプの違うエンジンを同時に供給するなど、将来像を描きながら絶えず挑戦を続けたが、「所期の目的を果たした」という理由により、10年目の区切りを迎えた92年シーズン終了をもって、ホンダはF1レース活動を休止することとなった。
カテゴリー: F1 / マクラーレンF1チーム / ホンダF1 / F1マシン
ホンダのF1エンジンが独走状態となったことで、FIA(国際自動車連盟)は1988年限りでターボを禁止し、1989年からの3.5リッター 自然吸気エンジンを導入することを決定した。
ターボ最終年となった1988年は、F1エンジンのパワー規制はさらに厳しくなり、ブースト圧は4バールから2.5バールに、レース中の燃料使用量は195リッターから150リッターに引き下げられた。しかし、ホンダはこの条件を逆手にとり、低燃費技術を駆使して他のエンジンメーカーを圧倒した。
当初、マクラーレンは、テクニカルディレクターであったジョン・バーナードがデザインした前年マシン『MP4/3』をリファインして使用する予定だったが、レギュレーション変更によってドライバーの足を前車軸より後ろに下げる規定が定められたこと、またブラバムからゴードン・マレーが加入していたことなどが重なり、白紙の状態からデザインされた。マクラーレン・ホンダ MP4/4は、MP4/3までの大柄なスタイルから一変し、マレーが2年前に設計した『フラットフィッシュ』の異名をとったブラバム BT55のような、全高が低く、ドラッグが少ないデザインとなった。
リアウイングへ効率よく空気を流すためサイドポッドが低く絞り込まれたデザインを実現するため、ホンダF1はエンジンのクランクシャフトの位置を下げ、ギアボックスのクラッチプレートを小径化するなどの改良を施した。
マクラーレン・ホンダ MP4/4は、16戦中15勝、10度にわたる1-2フィニッシュなど、数々の記録を塗り替えた。唯一、両ドライバーがリタイアしたイタリアGPでフェラーリのゲルハルト・ベルガーに優勝をさらわれ、シーズン完全制覇はならなかったが、マクラーレンMP4/4が史上最強のマシンだったことは明らかだ。
アラン・プロストとアイルトン・セナの両マクラーレンドライバーによって争われたドライバーズチャンピオン争いは、7勝のプロストに対し8勝を挙げたセナのものとなった。セナにとっては初のドライバーズタイトルとなった。獲得総ポイントではプロストが105ポイント、セナが94ポイントと、プロストが上回るが、有効ポイント制によりベスト11戦のリザルトが有効とされた(セナが90ポイント、プロストが87ポイント)。
当時ホンダF1のエンジニアを務めた市田勝巳は「世界一になるためには世界一のドライバーと組むこと。そうして挑んできたおかげで、彼らからマシン熟成のために貴重なアドバイスをたくさん受けてきました。彼らは人間的にも非常に豊かな感性を持っており、勝てないで落ち込んでいるメカニックたちをクルーザーに招待して、楽しませてくれたりしました。心のつながりも非常に大きかったですね。そうした彼らの人間性もマスコミを通じて日本人に浸透し、F1の人気も高まってきたんでしょうね」と語る。
前述のとおり、翌1989年よりレギュレーション変更でターボが禁止に。この時点でホンダ内部では初期目標の達成とターボエンジン開発の終了から、参戦休止という意見も出ていたが、本田宗一郎は「ターボ禁止はホンダだけか? 全チームが同じ条件で戦うのならばいいじゃないか。それでこそ、ヨーロッパの人たちに評価されるじゃないか」と意見した。
結果的にはホンダF1は、厳しい燃料制限を克服するために3.5リッター自然吸気エンジンを開発し、参戦は継続された。そして、ダブルチャンピオンは1991年まで5年連続で続くこととなる。91年にはマクラーレンへV12エンジン、ティレルへV10エンジンとタイプの違うエンジンを同時に供給するなど、将来像を描きながら絶えず挑戦を続けたが、「所期の目的を果たした」という理由により、10年目の区切りを迎えた92年シーズン終了をもって、ホンダはF1レース活動を休止することとなった。
カテゴリー: F1 / マクラーレンF1チーム / ホンダF1 / F1マシン