ジョン・ブース
F1アブダビGPを最後にマノー・マルシャを離れたジョン・ブースが、F1チーム代表としての6年間を振り返った。

「本当に大変な6年間だった。完全に疲れきってしまったよ」とジョン・ブースは Reuters に語った。

「妻を放っておいてしまったので、まずは3週間オーストラリアにいくつもりだ。心をすっきりさせる良い機会だ」

現在60歳のジョン・ブースは、モータースポーツでの生涯で夢を生き、悪夢に耐えた。

1980年代初期にはフォーミュラ・フォードでアイルトン・セナと戦い、その後、ジュニア・カテゴリーでルイス・ハミルトンやキミ・ライコネンを育てた。

当時、F3でマノー・モータースポーツのチームオーナーとして成功を収めたジョン・ブースは、2010年にコストキャップと支払いを保証する約束のもとで新規参戦した3チームのひとつであるヴァージン・レーシングのチーム代表としてF1に参入した。

他の2チーム、HRTとケータハムはすでに撤退している。しかし、ヴァージン・レーシングは、その後ロシア資本のマノーとなり、のちに破産したものの、なんとか生き残った。

スポーティングディレクターのグレアム・ローデンとともに辞任したジョン・ブースは、詳細は語ることを拒んだが、チームは今年ポイントを獲得できなかったものの、将来のために良いポジションにあると述べた。だが、自身の将来にはついてはより不確かとなっている。

「23歳の頃からモータースポーツに関与していた。そこから去るのは難しいことだろう?」とロザラムの肉屋の息子であるジョン・ブースは述べた。

いつかパドックに戻るかどうか質問されたジョン・ブースは「今、それに答えなければならないのであれば、ノーと言いたい」と答えた。

「だが、誰にもわからないことだろう? 太陽の下で2〜3週間過ごした後、どうなるかはわからない」

「我々が開始したときに事実をわかっていたなら、開始したかどうかはわからない。もしくはスタートできたかもわからない」とジョン・ブースは2010年のことを振り返った。

「マックス(モズレー:当時のFIA会長)は、我々に3000万ユーロのコストになりそうであり、我々は3000万ユーロの賞金を得るだろうと話していた。簡単な選択だろう? 我々は20000rpmとより大きな翼を得ていただろう。素晴らしい、やってみないか? もちろん、それはすぐに変わったがね」

マルシャは、2014年のF1モナコGPでジュール・ビアンキが9位でフィニッシュしてこれまでで唯一のポイントを獲得した。

だが、ジュール・ビアンキは、その数ヶ月後のF1日本GPでトラクターに衝突して頭部に重傷を負い、今年、亡くなった。だが、彼の遺産は、コンストラクターズ9位と数100万ユーロの賞金をチームにもたらした。

チームは、2013年にストレートテストでの事故で頭部に重傷を負った開発ドライバーのマリア・デ・ヴィロタの死をすでに悼んでいた。

だが、ジョン・ブースは、個人的に別のレースをハイライトに選んだ。

「2014年のモナコというのは簡単だ。もちろん、興奮した。だが、2010年のバーレーンでガレージから2台のクルマが出て行ったことを考えている」

「無からの8ヶ月だった。我々はスパナさえ持っていなかった。我々にはオフィスとワークションがあった。そこには私とデイブ・オニール(チームマネージャー)と現在も我々といるローラがいた。それだけだった」

「我々はオフィスで座っていた。『まったく、どうやって我々はF1チームを作るんだ?』とね」

全ては、既存チームの買収を望まなかった投資家に代わり、GP2シリーズのチームでF1に参入する可能性について尋ねたFIAへの一本の電話から始まった。

返事はノーだったが、もうひとつの疑問がわきあがった。「おまえはどのようなF1チームを心に描いているんだ?」

「夢だったのかもしれない。明日目が覚めて、気づくかもしれない」とジョン・ブースは語った。

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カテゴリー: F1 / マノー / マルシャ