ホンダF1成功の立役者、浅木泰昭が定年退職…後任に武内伊久雄
ホンダF1を支え、第4期F1活動の成功の立役者とも言えるHRC(ホンダ・レーシング)の四輪レース開発部部長の浅木泰昭が今年4月で定年退職することを発表。後任には武内伊久雄が就任する。

1981年にホンダに入社した浅木泰昭は、1980年代、F1マシンのエンジン開発を担当し、常勝マシン創りに貢献。また、初代オデッセイ、4代目インスパイアなどの開発に携わった後、2010年代には開発責任者として、初代N-BOXを皮切りにNシリーズを送り出す。

ホンダ第4期ではHRD Sakura センター長とパワーユニット開発責任者を兼務して日本でのF1活動を支え、ホンダがF1撤退した後は、その役割は後進に譲り、HRCの四輪レース開発部部長という肩書で仕事をしている。

「3月末に現在の部長職を退き、4月末でホンダを定年退職します」と浅木泰昭は挨拶。F1に関わってきた5年間について説明した。

「ホンダ創業者の本田宗一郎はレースがなければホンダはないといった。それを現代風に言うと、レースはホンダのDNAだということになります。四輪で言えば世界最高峰のレースであるF1に参戦して勝つということになり、それがホンダがレースをすることの意味だと考えています」

「世界のトップレースで勝つということは、技術者が世界一になるということです。しかし、サラリーマンの技術者が勝つというのは実は大変無謀なことです」

「そうしたホンダのレースに参戦する意味をよく示しているのが私のキャリアだと考えています」

「私は第2期F1に参加させてもらい、勝つことを体験し、それを持って量産に移り、V6エンジンの開発などを行なっていました。1990年頃、ホンダは経営的に厳しく他のメーカーに買収されるのではないかと言われていました。そうした中で、当時日本は豊かになって、子育てに必要なクルマのニーズが高まり、初代オデッセイを開発してヒットしたことがホンダの苦境を救いました」

「米国に移ったときにはトヨタのカムリとホンダのアコードが激しい競争を繰り広げていました、カムリが6速ATを入れてくると言うことになったときにホンダにはその選択肢がなかった。そこで燃費競争で負けるのがいやで気筒停止のエンジン技術を開発し、アコードの魅力を増して燃費で戦えるようにしました。また、N-BOXの開発では当時ホンダの軽自動車は全く売れていなかったが、魅力的な軽自動車を世に出すことでホンダの立て直しに貢献しました」

「そうした中で、60歳まであと半年というところで、F1を見てくれないかという話をもらいました。世界一になった自信でここまできた会社が、パワーユニットサプライヤーの中で唯一1勝もできずに撤退してしまえばDNAが途切れてしまうと考え、引き受けることにしました。そしてトロロッソ(現在のアルファタウリ)が苦しい時期の我々に手を差し伸べてくれて、レッドブルからの信頼を勝ち取ることができました。


「技術開発の観点では、当初はトップチームと大きな性能差がありましたが、エンジン内部での高速燃焼に関してホンダのエンジニアがもがき苦しみながら見つけてくれて追いつくことに成功しました。そして、2019年にはホンダの別の部門にも協力してもらい、新燃料を開発して投入した。この新燃料では単に性能だけでなく、カーボンニュートラルフューエルとすることも可能にしており、2021年はそれを使ってチャンピオンになりました」

「そして。2020年にはF1からの撤退が決定されました。私が知ったのは発表の10日前でしたが、このままでは終われないと新骨骼パワーユニットの開発を許可してもらい、奇跡的に開幕に間に合わせることができました。また、バッテリセルのホンダ内製化も実現し、2021年のシルバーストーンでのイギリスGPで投入することができました。そして2021年の最終戦アブダビGPでは最終ラップで逆転してドライバーチャンピオンになることができました」

「2022年はホンダの知的財産系で作ったパワーユニットをRBPTに供給してオペレーションもホンダが行なう形で参戦し、ホンダのホームレーで1-2フィニッシュを達成し、さらにチャンピオンも獲得することができました。その日本GPでホンダ関係者を代表してポディウムに登ることができたことはよい思い出です」

「今後4月1日からは私の後任として武内伊久雄が就任しますする。今後ともホンダとHRCをよろしくお願いします」

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カテゴリー: F1 / ホンダF1