ホンダのF1エンジニアが語る「アイルトン・セナとの思い出」
ホンダのF1エンジニア 岡田研が、アイルトン・セナとの思い出を語った。
過去に活躍した人物は、往々にして実際の働きよりも大きく評価される傾向にある。それは、現代に生きる我々が、直にその活躍を見ることができない以上、仕方のないことだと言えるだろう。
だが、アイルトン・セナの場合は違う。
ブラジル出身のアイルトン・セナは、国内だけでなく、世界中のF1ファンから尊敬の対象となっている。そんなセナが獲得した3度のタイトルは、1980年代後半~90年代前半にF1界を席巻したマクラーレン・ホンダとともに手にしたものだった。当時、彼と一緒に仕事をした人々は、セナから大きな影響を受けたと言う。
岡田研は、1991年にエレクトロニクス分野のエンジニアとしてマクラーレン・ホンダに加入。最初に一緒に仕事をしたドライバーがセナでした。現在はチームのERSエンジニアとして働く岡田が、ブラジルGPを前に当時を振り返ってくれた。
「初めて一緒に働いたF1ドライバーが、アイルトンとゲルハルト(ベルガー)でした。雑誌やホンダ内での情報で、もちろんセナのことは知っていましたし、私がテストチームで働き始めた頃には、すでに彼はスーパースターになっていました。大学生の時、テレビで見たレースで彼がホンダのマシンをドライブしていて、こんな人と一緒に働けたらいいな、と思っていましたね」と岡田研はHonda Racing F1の公式サイトで語った。
「当時、チームで一番の若手だった私は、アイルトンに話しかけるのにビビッてしまって(笑) でも、私の上司はアイルトンととても親しかったですね。アイルトンも我々みんなとフレンドリーに接してくれました。当時、チームが遠征でヒースロー空港に集合していて、アイルトンが私たちを見つけるとすぐに、陽気に会話の輪に加わってきたものでした」
アイルトン・セナの接し方にはスタイルがあった。それは、エンジニアの持っている情報で知りたいことがあれば、相手が多少嫌な思いをしようが聞き出す、というものだった。
「彼は技術分野やエンジンコントロールの方法まで、何にでも興味を持つ人でした。移動の際にアイルトンが我々を見つけると、我々の中から自分の知りたい分野のエンジニア1人を助手席に乗せて、質問攻めにするんです」
「話している中で、興味をそそることがあると、彼は前を見ずに10秒も20秒も助手席を向いてしまうんです(笑) 助手席にいる方としては、たまったもんじゃないんですが、アイルトンは“周りで起きていることは全部把握しているから心配するな”と言っていましたね」
当時、チームはレースウイーク以外のテスト走行を無制限に行うことができた。岡田のいたテストチームはセナと緊密に連携していたが、そこで有名なアラン・プロストとのライバル関係の一因を知ることになる。
「走行を終えて戻ってくると、アイルトンはマシンから飛び出して僕らのところへ向かってくるんです。そこでデータを見せると、彼は本当にいいフィードバックをしてくれました。当時はドライバーがエンジニアに直接指示して、フロントエンドをミリ単位、フラップの角度を1度単位での変更の指定していました。今はドライバーがエンジニアにドライビングでのフィーリングを伝えたら、エンジニアが空力やエンジンのセットアップをどう変えるかを決定しますから、やり方はかなり違っていますね」
「これはプロストとアイルトン、両方と仕事をしていた同僚から聞いた話なのですが、プロストはセットアップが得意で、アイルトンはそのレベルには達していなかったそうなんです。そこで、アイルトンがプロストのセットアップを真似したところ、かなり速くなって勝てるようになった。それを知ったプロストは怒って、自分のセットアップをアイルトンに隠すようになったそうです」
このライバル関係は、周囲の人々すべてを緊張させ、1989年の日本GPでの出来事のように、火がついてしまうこともあった。しかし、アイルトン・セナにはホンダとの絆があり、お互いを尊重し合っていたと、岡田は信じている。
「彼が僕らのすることに興味を示し、積極的に関与してくれたことは、ホンダを大いに奮い立たせました。F1の世界では欧州の文化がかなり強く反映されています。我々は日本人だし、彼はブラジル人。両方ともヨーロッパの考え方とは違うものを持っているわけで、F1という世界で、かなり似たような立場だったのではないかと僕は思います。それに、ブラジル人と日本人には、歴史的に深いつながりもありますから」
アイルトン・セナがF1で残した実績というと、勝利数やタイトルが注目される。しかし、岡田はセナの本当のすごさは、小さな事柄ながら誰にも真似できない部分にあると言います。
「一つは、無線でのやり取りです。ほとんどのドライバーは、操作の少ないストレート走行時に無線での会話をしていましたが、アイルトンはコーナリング中に話すんです。当時の無線にはノイズキャンセリングシステムがありませんでしたから、エンジンの回転数が低くなるコーナーのほうが聞き取りやすかったのは事実です」
「普通、ドライバーはコーナリング中に息を止めて、ストレートでまた呼吸をするものですが、アイルトンはノイズによってチームに自分の意図が間違って伝わる可能性を考えたのでしょう。これにはとても驚きました」
「もう一つは、安全性への意識の高さです。1992年、ドイツのホッケンハイムでテストを行ったとき、当時ベネトン所属でF1キャリア2年目のミハエル・シューマッハも参加しました。走行中、ミハエルがアイルトンを、まるでレースのようにアグレッシブな動きで抜いていったんです。すると、アイルトンはピットに戻るなりマシンを飛び降りて、ベネトンのガレージへ駆けていきました」
「レースとテストは違う、という彼の考えがよく表れた出来事でした。テストでは、マシンの細かな動きにまで集中するのがアイルトンのやり方ですし、当時はすべての走行でさまざまなことをテストしていました。その評価に集中しているときに、シューマッハがテストには不必要な危ない動きで飛び込んできたので、アイルトンは怒ったのでしょう」
アイルトン・セナの姿勢や手法は当時としても、かなり独特のものだった。そして、わずかな違いを見分ける注意力においても、彼はずば抜けた能力を発揮していた。
「私はソフトウエアの担当でしたが、90年代前半にはマシンのダッシュボードにデジタル画面があり、エンジン回転数などの表示をソフトで操作していました。当時、ECU(エンジンコントロールユニット)から0.1秒ごとに回転数が送信されていたのですが、あるときピットに戻ってきたセナが“コーナーでデータ送信が止まることがある”と教えてくれたんです」
「ECUチェッカーを使い、似たような状況を再現して調べたところ、1時間に1回くらいの割合で、0.2秒ほど送信がフリーズすることが分かりました。驚いたことに、アイルトンは、こんなわずかな違いを、全開で走行しながら感じ取ることができたんです」
それから25年、岡田は同じことができるドライバーと出会えたのだろうか?
「いやいや、一人もいませんよ」と笑って答えた岡田。「アイルトンと仕事をしたと言えるのが、私の誇りです。彼は素晴らしい人物で、たくさんの思い出を残してくれました」
カテゴリー: F1 / アイルトン・セナ / ホンダF1
過去に活躍した人物は、往々にして実際の働きよりも大きく評価される傾向にある。それは、現代に生きる我々が、直にその活躍を見ることができない以上、仕方のないことだと言えるだろう。
だが、アイルトン・セナの場合は違う。
ブラジル出身のアイルトン・セナは、国内だけでなく、世界中のF1ファンから尊敬の対象となっている。そんなセナが獲得した3度のタイトルは、1980年代後半~90年代前半にF1界を席巻したマクラーレン・ホンダとともに手にしたものだった。当時、彼と一緒に仕事をした人々は、セナから大きな影響を受けたと言う。
岡田研は、1991年にエレクトロニクス分野のエンジニアとしてマクラーレン・ホンダに加入。最初に一緒に仕事をしたドライバーがセナでした。現在はチームのERSエンジニアとして働く岡田が、ブラジルGPを前に当時を振り返ってくれた。
「初めて一緒に働いたF1ドライバーが、アイルトンとゲルハルト(ベルガー)でした。雑誌やホンダ内での情報で、もちろんセナのことは知っていましたし、私がテストチームで働き始めた頃には、すでに彼はスーパースターになっていました。大学生の時、テレビで見たレースで彼がホンダのマシンをドライブしていて、こんな人と一緒に働けたらいいな、と思っていましたね」と岡田研はHonda Racing F1の公式サイトで語った。
「当時、チームで一番の若手だった私は、アイルトンに話しかけるのにビビッてしまって(笑) でも、私の上司はアイルトンととても親しかったですね。アイルトンも我々みんなとフレンドリーに接してくれました。当時、チームが遠征でヒースロー空港に集合していて、アイルトンが私たちを見つけるとすぐに、陽気に会話の輪に加わってきたものでした」
アイルトン・セナの接し方にはスタイルがあった。それは、エンジニアの持っている情報で知りたいことがあれば、相手が多少嫌な思いをしようが聞き出す、というものだった。
「彼は技術分野やエンジンコントロールの方法まで、何にでも興味を持つ人でした。移動の際にアイルトンが我々を見つけると、我々の中から自分の知りたい分野のエンジニア1人を助手席に乗せて、質問攻めにするんです」
「話している中で、興味をそそることがあると、彼は前を見ずに10秒も20秒も助手席を向いてしまうんです(笑) 助手席にいる方としては、たまったもんじゃないんですが、アイルトンは“周りで起きていることは全部把握しているから心配するな”と言っていましたね」
当時、チームはレースウイーク以外のテスト走行を無制限に行うことができた。岡田のいたテストチームはセナと緊密に連携していたが、そこで有名なアラン・プロストとのライバル関係の一因を知ることになる。
「走行を終えて戻ってくると、アイルトンはマシンから飛び出して僕らのところへ向かってくるんです。そこでデータを見せると、彼は本当にいいフィードバックをしてくれました。当時はドライバーがエンジニアに直接指示して、フロントエンドをミリ単位、フラップの角度を1度単位での変更の指定していました。今はドライバーがエンジニアにドライビングでのフィーリングを伝えたら、エンジニアが空力やエンジンのセットアップをどう変えるかを決定しますから、やり方はかなり違っていますね」
「これはプロストとアイルトン、両方と仕事をしていた同僚から聞いた話なのですが、プロストはセットアップが得意で、アイルトンはそのレベルには達していなかったそうなんです。そこで、アイルトンがプロストのセットアップを真似したところ、かなり速くなって勝てるようになった。それを知ったプロストは怒って、自分のセットアップをアイルトンに隠すようになったそうです」
このライバル関係は、周囲の人々すべてを緊張させ、1989年の日本GPでの出来事のように、火がついてしまうこともあった。しかし、アイルトン・セナにはホンダとの絆があり、お互いを尊重し合っていたと、岡田は信じている。
「彼が僕らのすることに興味を示し、積極的に関与してくれたことは、ホンダを大いに奮い立たせました。F1の世界では欧州の文化がかなり強く反映されています。我々は日本人だし、彼はブラジル人。両方ともヨーロッパの考え方とは違うものを持っているわけで、F1という世界で、かなり似たような立場だったのではないかと僕は思います。それに、ブラジル人と日本人には、歴史的に深いつながりもありますから」
アイルトン・セナがF1で残した実績というと、勝利数やタイトルが注目される。しかし、岡田はセナの本当のすごさは、小さな事柄ながら誰にも真似できない部分にあると言います。
「一つは、無線でのやり取りです。ほとんどのドライバーは、操作の少ないストレート走行時に無線での会話をしていましたが、アイルトンはコーナリング中に話すんです。当時の無線にはノイズキャンセリングシステムがありませんでしたから、エンジンの回転数が低くなるコーナーのほうが聞き取りやすかったのは事実です」
「普通、ドライバーはコーナリング中に息を止めて、ストレートでまた呼吸をするものですが、アイルトンはノイズによってチームに自分の意図が間違って伝わる可能性を考えたのでしょう。これにはとても驚きました」
「もう一つは、安全性への意識の高さです。1992年、ドイツのホッケンハイムでテストを行ったとき、当時ベネトン所属でF1キャリア2年目のミハエル・シューマッハも参加しました。走行中、ミハエルがアイルトンを、まるでレースのようにアグレッシブな動きで抜いていったんです。すると、アイルトンはピットに戻るなりマシンを飛び降りて、ベネトンのガレージへ駆けていきました」
「レースとテストは違う、という彼の考えがよく表れた出来事でした。テストでは、マシンの細かな動きにまで集中するのがアイルトンのやり方ですし、当時はすべての走行でさまざまなことをテストしていました。その評価に集中しているときに、シューマッハがテストには不必要な危ない動きで飛び込んできたので、アイルトンは怒ったのでしょう」
アイルトン・セナの姿勢や手法は当時としても、かなり独特のものだった。そして、わずかな違いを見分ける注意力においても、彼はずば抜けた能力を発揮していた。
「私はソフトウエアの担当でしたが、90年代前半にはマシンのダッシュボードにデジタル画面があり、エンジン回転数などの表示をソフトで操作していました。当時、ECU(エンジンコントロールユニット)から0.1秒ごとに回転数が送信されていたのですが、あるときピットに戻ってきたセナが“コーナーでデータ送信が止まることがある”と教えてくれたんです」
「ECUチェッカーを使い、似たような状況を再現して調べたところ、1時間に1回くらいの割合で、0.2秒ほど送信がフリーズすることが分かりました。驚いたことに、アイルトンは、こんなわずかな違いを、全開で走行しながら感じ取ることができたんです」
それから25年、岡田は同じことができるドライバーと出会えたのだろうか?
「いやいや、一人もいませんよ」と笑って答えた岡田。「アイルトンと仕事をしたと言えるのが、私の誇りです。彼は素晴らしい人物で、たくさんの思い出を残してくれました」
カテゴリー: F1 / アイルトン・セナ / ホンダF1