ホンダF1計画を断った1999年の悲劇 ヨス・フェルスタッペンの分岐点

この計画は、ホンダが単なるエンジンサプライヤーとしてではなく、自らシャシーを開発してF1へ復帰しようとしていた時期のものだった。
テストでは有望な速さも示していたが、中心人物を失ったことでプロジェクトは急速に失速し、ついにはグランプリ出走を果たさぬまま幕を下ろした。
ホンダがコンストラクター復帰を目指した背景
物語は1991年シーズン末にさかのぼる。当時のホンダはエンジンサプライヤーとして絶頂期にあり、1986年から1991年にかけてウィリアムズとマクラーレンとともに6度のコンストラクターズ選手権を獲得していた。
だが、その支配的な成功こそが、当時のホンダ社長だった川本信彦に「F1はもはや自社のエンジニアにとって十分な技術的挑戦ではない」と考えさせる要因になった。この判断は重みを持ち、ホンダは1992年限りでF1から撤退した。
その後、日本のメーカーはエンジニア陣を再活性化し、創業者・本田宗一郎への敬意を示す意味も込めて、自社のシングルシーター用シャシー開発へと軸足を移した。
最初のシャシーであるRC100は成功しなかったが、開発は止まらず、1993年レギュレーションに合わせた新バージョンが作られた。
これらのシャシーのテストは、ホンダがコンストラクターとしてF1へ復帰するのではないかという憶測を呼んだ。RC101はFIAのクラッシュテストにも合格し、グランプリ参戦が可能な状態にあった。
その後継となるRC101Bはさらに注目を集めたが、ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの死亡事故、さらにその後のレギュレーション変更を受けて改修が必要となった。
1998年デビュー計画から2000年参戦へ
ホンダが公にF1復帰の意思を示したのは1995年になってからだった。
川本は当初、1998年のデビューを目標にしていた。1997年にブリヂストンがF1タイヤサプライヤーとして参入することもその判断に影響しており、同社はRC100をテストシャシーとして使用していた。
ホンダはまた、無限ホンダV10エンジンを使って独自のF1構想を進めていた日本のドームの経験も取り込もうとしていた。
しかし、計画された復帰時期は2000年へと後ろ倒しされた。ホンダは、自社がまだ準備不足だと認めていたためだ。ドーム支援やティレルへの出資が噂される時期もあった。
一方で、無限ホンダはジョーダン・グランプリへエンジン供給を開始しており、これは広くホンダ復帰への布石と受け止められていた。
1998年末になると、ホンダが少なくとも5年間、ワークスチームとしてF1に参戦するというニュースは正式なものとなった。
目標は野心的だった。2000年の時点で表彰台争い、そして3年以内の勝利だった。年間予算は2億ドルと報じられたが、その数字には異論もあり、プロジェクト規模を巡る社内の温度差も示していた。
ティレル人脈とポスルスウェイトの存在
不透明さを抱えつつも、チームの形は整い始めていた。ホンダは、ティレルがブリティッシュ・アメリカン・レーシング(BAR)へ移行する流れのなかで、同チームから積極的に人材を集めた。
技術部門の中心に据えられたのがポスルスウェイトだった。彼には、新生BARに残ることを望まなかった元ティレルスタッフも加わった。
この体制は、ホンダが単なる実験ではなく、本気でF1復帰を目指していたことを示していた。

ヨス・フェルスタッペンが託した復帰への道
同じ頃、ホンダはテストドライバー探しを進めていた。当初の候補は野心的で、ジャック・ビルヌーブや高木虎之介の名が挙がっていた。アレッサンドロ・ザナルディやジョニー・ハーバートも候補として検討された。
だが、それらの選択肢が消えると、ミカ・サロにも声がかかった。しかしサロはBAR加入を選び、その結果としてフェルスタッペンに道が開けた。
スチュワート・グランプリのシートを失っていたオランダ人ドライバーは、ホンダと3年契約を結んだ。これは2000年、2001年のグリッド復帰への道筋を与えるものだった。フェルスタッペンはその機会を歓迎していた。
「本当にうれしい。これでF1に戻る道ができたし、それもポイントを獲得できるチームにまっすぐ入る道だ」
RA099はすぐに有望さを示した。ヘレスで行われた冬季テストでは、フェルスタッペンが最速タイムを記録し、BARのジャック・ビルヌーブより1秒以上速かった。
数週間後のバルセロナでは、ヤルノ・トゥルーリから1.4秒差の11番手タイムを記録した。一部チームはマシンの合法性に疑問を投げかけたが、別の陣営はその速さと信頼性に感銘を受けていた。
ポスルスウェイト急死がもたらした転機
しかし舞台裏では緊張が続いていた。特に北米市場では、F1プログラムへの投資規模に対する懸念が強まりつつあった。
さらに、BARがスーパーテック製エンジンに不満を抱き、無限ホンダへのスイッチに関心を示していたことも状況を複雑にした。
これに対し、ポスルスウェイトら上層部は、ホンダのレーシング部門の60%を買い取り、独立チームとして運営する案を提案していた。
その体制でホンダエンジンを使い続け、将来的にはホンダが原価でチームを買い戻せるようにする構想だった。
そして転機が訪れる。
4月14日、バルセロナでのテスト中に、ポスルスウェイトが胸の痛みを訴えた。彼はホテルへ戻ったが、その後病院に搬送され、夜のうちに心臓発作で亡くなった。
ホンダは直ちに進行中だったテストプログラムを中止した。これが終焉の始まりとなった。

RA099計画はなぜ消えたのか
ポスルスウェイトの死は大きな空白を残した。ホンダ・レーシング・ディベロップメンツは計画継続を試み、その後のテストも予定し、6月からはサロをテストドライバーとして起用する契約まで進めていた。
その一方で、ホンダ首脳部はバーニー・エクレストンやマックス・モズレーと交渉し、プロジェクトの引き取り先を探っていた。
2000年シーズンの参戦枠を確保していたため、撤退すればFIAから多額の罰金を科され、評判も傷つく恐れがあった。ホンダは、エクレストンがチームを買い取り、別の買い手へ転売する可能性に期待していた。
それでもテストは続けられた。5月19日のバルセロナでは、フェルスタッペンがマクラーレンのミカ・ハッキネンから1.5秒差の6番手タイムを記録した。
ところが3日目、計画は突然打ち切られた。ホンダの取締役がサーキットに現れ、フェルスタッペンをピットへ呼び戻し、プログラムは即時終了すると通告した。
ジョン・マクドナルドやフラビオ・ブリアトーレら複数の買い手候補も現れたが、RA099がグランプリを走ることはなかった。
この撤退は、より広い影響も及ぼした。10年ぶりの復帰を目指していたザクスピードの計画を事実上塞ぐことになり、2000年シーズンのエントリーは11チーム、22人にとどまった。
フェルスタッペン自身は、その後アロウズへ加入し、2000年にフルタイムのレースシートへ復帰した。彼は2003年までF1に残り、最後はミナルディでキャリアを終えた。
RA099が残した評価と現在の位置づけ
ホンダが開発したRA099は、実戦投入には至らなかったものの、当時のテスト関係者や他チームからはその完成度の高さを評価する声もあった。
短期間で開発されたマシンでありながら、安定した走行と一定の速さを示していたことは、ホンダの技術的ポテンシャルを示す材料ともなっていた。
このプロジェクトの中断は、単なる一計画の終了にとどまらず、その後のホンダのF1復帰の形にも影響を与えたと考えられている。

フェルスタッペンとホンダに残された“もしも”
RA099の物語は、F1史に残る大きな「もしも」のひとつであり続けている。
もしポスルスウェイトがあの致命的な心臓発作に見舞われていなければ、プロジェクトは継続していたのか。続いていたとして、潤沢な予算と技術陣を背景に、どこまで成功できたのか。
フェルスタッペンは何を失ったのか。2000年以降、ホンダとともに自身最大の成功をつかんでいた可能性はあったのか。マシンは表彰台、あるいは勝利を狙えるだけの力を備えていたのか。
その答えは、今も分からないままだ。
ホンダはその後、エンジンサプライヤーとしての活動を経て、2006年にBARを引き継ぐ形でF1へ復帰した。しかし短い低迷ののち、2008年に再び撤退し、チームは象徴的な1ポンドでロス・ブラウンへ売却された。
歴史が別の方向へ動いていた可能性を示す一件として、1999年4月15日は今も重い意味を持ち続けている。
Source: RacingNews365
カテゴリー: F1 / ホンダF1
