F1特集:ライバル関係が臨界点に達した瞬間 ベスト7
アイルトン・セナ vs アラン・プロスト、ニキ・ラウダ vs ジェームス・ハント …エキサイティング&ドラマティックなライバル関係が頂点に達した瞬間とその結末を辿ってみよう。
過去、F1では何人ものトップドライバーたちが熾烈なライバル関係を形成し、サーキット内外で激しいバトルを展開してきた。そして、時にはその対立関係がひとつのレース、あるいはたった1カ所のコーナーに集約されることもあった。
今回は、F1史を鮮やかに彩ってきた7つのライバル決戦とその結末を振り返ってみよう。
ジェームス・ハント vs. ニキ・ラウダ:1976年 F1世界選手権イン・ジャパン(富士スピードウェイ)
これはレースが最も危険で魅力的だった時代の象徴だ。
この歴史に残るライバル関係は、ロン・ハワード監督作品『ラッシュ/プライドと友情』の題材となり、快活なプレイボーイ(ジェームス・ハント)と冷静な理論家(ニキ・ラウダ)の戦いはスクリーン上でも魅力的に描かれた(この2人のキャラクター対比のステレオタイプは、事実と全く同じだとラウダ本人も認めている)。
自らの身へ降りかかる災難を予想していたかのように、1976年シーズン開幕前のラウダはコース幅の狭さとツイスティさで悪名を馳せていたニュルブルクリンク・ノルドシュライフェでのレース開催について懸念を表明していた。
事実、雨に見舞われたノルドシュライフェでラウダはクラッシュを喫し、燃え盛るマシンの中に1分近く閉じ込められてしまった。
ラウダは顔や身体に深刻な火傷を負ったものの、驚くべきことにわずか2戦を欠場しただけで復帰し、さらには復帰1レース目でハントに対するポイントリードを広げてみせた。しかし、ハントも諦めずに優勝を重ね、チャンピオン争いに残り続けた。
こうして、2人の最終決戦の舞台は、大荒れの天候となった富士スピードウェイへ持ち込まれた…。
スタートから2周目、コンディションが危険すぎると判断したラウダはピットに戻り、自主的にリタイア。一方のハントは、チャンピオン獲得のために最低でも3位でフィニッシュする必要があった。
さらに緊張を高めるがごとく、ハントは深刻なタイヤ摩耗に見舞われてピットインを強いられる。残り2周でのハントの順位は5位に落ちていた。
しかし、ハントは鬼神の走りで3位を取り戻し、レース史に残る屈指のドラマティックなフィニッシュを遂げた。かくして、ハントは最終局面でラウダを下してチャンピオンを獲得した。
ナイジェル・マンセル vs. ネルソン・ピケ:1986年 F1オーストラリアGP(アデレード市街地サーキット)
ナイジェル・マンセルは、ベティ・デイヴィス(注:1930年代にハリウッドで活躍した不世出の演技派女優)にも匹敵するドラマティックな人物だった。
たとえば、フェラーリ在籍2年目の1990年シーズンにアラン・プロストをチームメイトに迎えたマンセルは、深刻な “真ん中っ子症候群(ミドルチャイルド・シンドローム)” へ陥る。
チーム内での主導権をプロストに奪われたマンセルは精神を乱され、年シーズン終盤のポルトガルGPでプロストに幅寄せするという暴挙に出て、両者のチャンピオンシップを危険に晒した。
しかし、1986年シーズンにウィリアムズの同僚としてネルソン・ピケを迎えたあとにマンセルが経験した軋轢に比べれば、プロストとのライバル関係は生温かった。
洗練されたプレイボーイだったピケはマンセルを “教養のない愚か者” と罵り、多くの識者もピケが優位に立つだろうと考えていた。
しかし、マンセルは年シーズンを通して予想を覆す活躍を見せ、4勝のピケを上回る5勝を記録する。
チャンピオン決定の舞台はアデレード市街地サーキットで行われた最終戦オーストラリアGPに持ち越され、マンセルにとってはピケの鼻をあかす絶好のチャンスとなるはずだった。
しかし、序盤からリードを奪い、初戴冠はもはや確実と思われたマンセルだったが、突然のタイヤパンクチャーに見舞われてストップ。ピケもまた予定外のピットストップを強いられ、チャンピオンはアラン・プロスト(マクラーレン)の手に渡ってしまった…。
マーク・ウェバー vs. セバスチャン・ベッテル:2013年 F1マレーシアGP(セパン・インターナショナル・サーキット)
マーク・ウェバーとセバスチャン・ベッテルの関係は、契約上同じチームに所属しているという以上のなにものでもなかった。
この2人は最初から激しいライバル関係を “楽しみ”、2010年シーズンのトルコGPで同士討ちを演じたあとは、お互いを蔑視していた。
ウェバーは、当時まだ実績が証明されていなかったドイツ人ワンダーボーイをチームが優遇していると考えていた。インタビューの場においてウェバーはたびたび皮肉交じりにベッテルを批判したが、ベッテルは4年連続ワールドチャンピオンで応酬した。
5年間くすぶり続けた確執の火種(爆発することも何回かあった)は、2013年シーズンのマレーシアGPでひとつの臨界点に達した。
最後のピットストップを終えたベッテルは、ウェバーの優勝を優先させるというレース前の取り決めを破り、ファイナルラップでウェバーをパスして優勝を奪った。
苦虫を潰すように吐き出されたレース後のコメントの中で、ウェバーはこの裏切りによってベッテルがチームから何らかの罰を与えられることはないはずだと語り、「いつものごとく、セブは守られるんだろう。そういうことになってるのさ」と続けた。
この「マルチ21事件」が勃発してから数週間後、ウェバーはF1引退を表明した。
ルイス・ハミルトン vs. フェリペ・マッサ:2008年 F1ブラジルGP(アウトドローモ・ホセ・カルロス・パーチェ)
スポーツ界における様々なライバル関係の中でも、ルイス・ハミルトンとフェリペ・マッサのそれは、蒸気機関が発明されたヴィクトリア朝時代の "紳士協定" に近い。
ハミルトンが頭に血が上りやすいと時折評価されていたことを除けば、2人はお互いをリスペクトする関係を築くことに成功しており、正々堂々と渡り合って2008年シーズンにいくつかの名場面を生み出していた。
そして、2人のドライバーズチャンピオンシップの決着は、年シーズン最終戦ブラジルGPまでもつれ込んだ。
タイトルに近いのはハミルトンだったが、レースではフェリペ・マッサが首位で十分なリードを築き、ハミルトンは4番手に落ちていた。
そしてマッサがトップでチェッカーフラッグを受けたその瞬間も、ハミルトンはチャンピオン獲得のために必要とする順位におらず、王座獲得を確信したフェラーリピット内には歓喜が広がった。
しかし、次の瞬間、ハミルトンが最終ラップの最終コーナーでティモ・グロックをパスしてチャンピオン獲得に必要な3位の座を手に入れ、彼らの歓喜は一気に落胆へと転じた。この結果、たった1ポイント差でハミルトンが初戴冠を成し遂げた。
ミハエル・シューマッハ vs. ジャック・ヴィルヌーブ:1997年 F1ヨーロッパGP(ヘレス)
ミハエル・シューマッハが歴代最高のドライバーのひとりであることに疑いの余地はない。しかし、マシンをどこまでも速く走らせる卓越した才能を持っていた彼は、スポーツマンシップについては非道だった。
1994年シーズン最終戦オーストラリアGP、シューマッハはデイモン・ヒルをクラッシュに追いやり、ライバルのチャンピオン獲得の可能性を潰した。
しかし、シューマッハが “アクシデント” のアドバンテージを活用したのは、この時だけではなかった。
3年後の1997年シーズン、シューマッハはジャック・ヴィルヌーブと激しいタイトル争いを展開した。ヴィルヌーブはチャンピオンシップでシューマッハを猛追しており、2人の争いは、シューマッハが1ポイントをリードした状態で最終戦ヨーロッパGPへと持ち越された。
レースは序盤からシューマッハがリードしていた。しかし、48周目にヴィルヌーブがシューマッハを捕らえてインサイドからオーバーテイクを敢行すると、シューマッハも素早くイン側のラインをブロックして応酬。結果2人は接触し、シューマッハはその場でレースを終えた。
しかし、皮肉なことにヴィルヌーブは手負いの状態ながらもレースを続け、3位に入ってチャンピオンを確定させた。
そして検証のあと(ヒルに対して行った行為も考慮された)、シューマッハのクラッシュは意図的なものであるとの裁定が下され、1997年シーズンのチャンピオンシップからの除外という厳しい処分がなされた。
ミハエル・シューマッハ vs. ミカ・ハッキネン:2000年 F1イタリアGP(モンツァ)
お互いを高く評価していたシューマッハとミカ・ハッキネンだが、このレースでは激しい火花を散らした。
1998年シーズンのイタリアGP、“初代アイスマン” ことハッキネンはスピンを喫してグラベルトラップにはまり、モンツァの森の中で人知れず悔し涙を流した。しかし、ハッキネンはこのあと1998年シーズンのチャンピオンに輝き、モンツァでの雪辱を果たした。
それから2年後、シューマッハにとって2000年シーズンのモンツァはキャリア屈指の勝利の舞台となる。
シューマッハはハッキネンの猛追を最後までしのぎ、それまで6戦連続で勝利に見放されてきた不運を払拭すると共に、故アイルトン・セナの通算41勝に並んだ。
いつになく感傷的になっていたシューマッハは、レース後の記者会見で人目もはばからず号泣。その心情を誰よりも理解していたであろうハッキネンはシューマッハの肩にそっと手を置き、記者たちに対して「しばらくそっとしておいてくれ」と伝えた。
そしてシューマッハは同年シーズンにフェラーリ移籍後初のチャンピオンを獲得。人前での涙はF1での成功の秘訣なのかもしれない…。
アラン・プロスト vs. アイルトン・セナ:1990年 F1日本GP(鈴鹿サーキット)
F1史上最も熾烈なライバル関係と呼べる2人の関係には、ハリウッドの大作映画シリーズさながらの物語性があった。歴代最高に数えられるドライバー2人が、死力を尽くして対決したのだ。
アラン・プロストは “プロフェッサー” という異名を取るほどの計算高さを備えた、隙のないプロフェッショナルなドライバーだった。一方、アイルトン・セナは大胆不敵な異端児で、そのリスクを恐れぬ姿勢と天賦の才能で知られていた。
この2人の巨星はマクラーレンで2年シーズンチームメイトとして過ごしたが、その関係は険悪なものに終わった。
プロストは1989年シーズンにセナを倒してチャンピオンを獲得すると、翌1990年シーズンにフェラーリへ移籍。彼はフェラーリに対し、いかなる場合でもセナをチームメイトとして雇用してはならないという条件を提示していたと言われている。
その1990年シーズン、第15戦日本GPを迎える時点でチャンピオンシップをリードし、王手をかけていたのはセナだった。セナは予選でポールポジションを獲得し、プロストは2番手につけた。
決勝レース前、セナはプロストのスターティンググリッド(アウト側)のほうが有利だと主張し、プロストが好スタートを切るようなら必ず1コーナーでプロストの前に出ると誓っていた。
いざレースがスタートすると、セナが予想していた通りの展開となった。ただし、セナが外部に打ち明けていなかったプランの中には、プロストが乗るフェラーリのサイドへ突っ込み、そのままコースアウトさせて2人ともレースをリタイアするというプランも含まれていた…。
なぜなら、共にリタイヤとなっても、セナはワールドチャンピオン獲得に十分なポイント上のアドバンテージを維持できたからだ。そしてこの “特攻” はプロストがレースでセナを逆転するチャンスを確実に奪ったのだった…。
カテゴリー: F1 / F1ドライバー
過去、F1では何人ものトップドライバーたちが熾烈なライバル関係を形成し、サーキット内外で激しいバトルを展開してきた。そして、時にはその対立関係がひとつのレース、あるいはたった1カ所のコーナーに集約されることもあった。
今回は、F1史を鮮やかに彩ってきた7つのライバル決戦とその結末を振り返ってみよう。
ジェームス・ハント vs. ニキ・ラウダ:1976年 F1世界選手権イン・ジャパン(富士スピードウェイ)
これはレースが最も危険で魅力的だった時代の象徴だ。
この歴史に残るライバル関係は、ロン・ハワード監督作品『ラッシュ/プライドと友情』の題材となり、快活なプレイボーイ(ジェームス・ハント)と冷静な理論家(ニキ・ラウダ)の戦いはスクリーン上でも魅力的に描かれた(この2人のキャラクター対比のステレオタイプは、事実と全く同じだとラウダ本人も認めている)。
自らの身へ降りかかる災難を予想していたかのように、1976年シーズン開幕前のラウダはコース幅の狭さとツイスティさで悪名を馳せていたニュルブルクリンク・ノルドシュライフェでのレース開催について懸念を表明していた。
事実、雨に見舞われたノルドシュライフェでラウダはクラッシュを喫し、燃え盛るマシンの中に1分近く閉じ込められてしまった。
ラウダは顔や身体に深刻な火傷を負ったものの、驚くべきことにわずか2戦を欠場しただけで復帰し、さらには復帰1レース目でハントに対するポイントリードを広げてみせた。しかし、ハントも諦めずに優勝を重ね、チャンピオン争いに残り続けた。
こうして、2人の最終決戦の舞台は、大荒れの天候となった富士スピードウェイへ持ち込まれた…。
スタートから2周目、コンディションが危険すぎると判断したラウダはピットに戻り、自主的にリタイア。一方のハントは、チャンピオン獲得のために最低でも3位でフィニッシュする必要があった。
さらに緊張を高めるがごとく、ハントは深刻なタイヤ摩耗に見舞われてピットインを強いられる。残り2周でのハントの順位は5位に落ちていた。
しかし、ハントは鬼神の走りで3位を取り戻し、レース史に残る屈指のドラマティックなフィニッシュを遂げた。かくして、ハントは最終局面でラウダを下してチャンピオンを獲得した。
ナイジェル・マンセル vs. ネルソン・ピケ:1986年 F1オーストラリアGP(アデレード市街地サーキット)
ナイジェル・マンセルは、ベティ・デイヴィス(注:1930年代にハリウッドで活躍した不世出の演技派女優)にも匹敵するドラマティックな人物だった。
たとえば、フェラーリ在籍2年目の1990年シーズンにアラン・プロストをチームメイトに迎えたマンセルは、深刻な “真ん中っ子症候群(ミドルチャイルド・シンドローム)” へ陥る。
チーム内での主導権をプロストに奪われたマンセルは精神を乱され、年シーズン終盤のポルトガルGPでプロストに幅寄せするという暴挙に出て、両者のチャンピオンシップを危険に晒した。
しかし、1986年シーズンにウィリアムズの同僚としてネルソン・ピケを迎えたあとにマンセルが経験した軋轢に比べれば、プロストとのライバル関係は生温かった。
洗練されたプレイボーイだったピケはマンセルを “教養のない愚か者” と罵り、多くの識者もピケが優位に立つだろうと考えていた。
しかし、マンセルは年シーズンを通して予想を覆す活躍を見せ、4勝のピケを上回る5勝を記録する。
チャンピオン決定の舞台はアデレード市街地サーキットで行われた最終戦オーストラリアGPに持ち越され、マンセルにとってはピケの鼻をあかす絶好のチャンスとなるはずだった。
しかし、序盤からリードを奪い、初戴冠はもはや確実と思われたマンセルだったが、突然のタイヤパンクチャーに見舞われてストップ。ピケもまた予定外のピットストップを強いられ、チャンピオンはアラン・プロスト(マクラーレン)の手に渡ってしまった…。
マーク・ウェバー vs. セバスチャン・ベッテル:2013年 F1マレーシアGP(セパン・インターナショナル・サーキット)
マーク・ウェバーとセバスチャン・ベッテルの関係は、契約上同じチームに所属しているという以上のなにものでもなかった。
この2人は最初から激しいライバル関係を “楽しみ”、2010年シーズンのトルコGPで同士討ちを演じたあとは、お互いを蔑視していた。
ウェバーは、当時まだ実績が証明されていなかったドイツ人ワンダーボーイをチームが優遇していると考えていた。インタビューの場においてウェバーはたびたび皮肉交じりにベッテルを批判したが、ベッテルは4年連続ワールドチャンピオンで応酬した。
5年間くすぶり続けた確執の火種(爆発することも何回かあった)は、2013年シーズンのマレーシアGPでひとつの臨界点に達した。
最後のピットストップを終えたベッテルは、ウェバーの優勝を優先させるというレース前の取り決めを破り、ファイナルラップでウェバーをパスして優勝を奪った。
苦虫を潰すように吐き出されたレース後のコメントの中で、ウェバーはこの裏切りによってベッテルがチームから何らかの罰を与えられることはないはずだと語り、「いつものごとく、セブは守られるんだろう。そういうことになってるのさ」と続けた。
この「マルチ21事件」が勃発してから数週間後、ウェバーはF1引退を表明した。
ルイス・ハミルトン vs. フェリペ・マッサ:2008年 F1ブラジルGP(アウトドローモ・ホセ・カルロス・パーチェ)
スポーツ界における様々なライバル関係の中でも、ルイス・ハミルトンとフェリペ・マッサのそれは、蒸気機関が発明されたヴィクトリア朝時代の "紳士協定" に近い。
ハミルトンが頭に血が上りやすいと時折評価されていたことを除けば、2人はお互いをリスペクトする関係を築くことに成功しており、正々堂々と渡り合って2008年シーズンにいくつかの名場面を生み出していた。
そして、2人のドライバーズチャンピオンシップの決着は、年シーズン最終戦ブラジルGPまでもつれ込んだ。
タイトルに近いのはハミルトンだったが、レースではフェリペ・マッサが首位で十分なリードを築き、ハミルトンは4番手に落ちていた。
そしてマッサがトップでチェッカーフラッグを受けたその瞬間も、ハミルトンはチャンピオン獲得のために必要とする順位におらず、王座獲得を確信したフェラーリピット内には歓喜が広がった。
しかし、次の瞬間、ハミルトンが最終ラップの最終コーナーでティモ・グロックをパスしてチャンピオン獲得に必要な3位の座を手に入れ、彼らの歓喜は一気に落胆へと転じた。この結果、たった1ポイント差でハミルトンが初戴冠を成し遂げた。
ミハエル・シューマッハ vs. ジャック・ヴィルヌーブ:1997年 F1ヨーロッパGP(ヘレス)
ミハエル・シューマッハが歴代最高のドライバーのひとりであることに疑いの余地はない。しかし、マシンをどこまでも速く走らせる卓越した才能を持っていた彼は、スポーツマンシップについては非道だった。
1994年シーズン最終戦オーストラリアGP、シューマッハはデイモン・ヒルをクラッシュに追いやり、ライバルのチャンピオン獲得の可能性を潰した。
しかし、シューマッハが “アクシデント” のアドバンテージを活用したのは、この時だけではなかった。
3年後の1997年シーズン、シューマッハはジャック・ヴィルヌーブと激しいタイトル争いを展開した。ヴィルヌーブはチャンピオンシップでシューマッハを猛追しており、2人の争いは、シューマッハが1ポイントをリードした状態で最終戦ヨーロッパGPへと持ち越された。
レースは序盤からシューマッハがリードしていた。しかし、48周目にヴィルヌーブがシューマッハを捕らえてインサイドからオーバーテイクを敢行すると、シューマッハも素早くイン側のラインをブロックして応酬。結果2人は接触し、シューマッハはその場でレースを終えた。
しかし、皮肉なことにヴィルヌーブは手負いの状態ながらもレースを続け、3位に入ってチャンピオンを確定させた。
そして検証のあと(ヒルに対して行った行為も考慮された)、シューマッハのクラッシュは意図的なものであるとの裁定が下され、1997年シーズンのチャンピオンシップからの除外という厳しい処分がなされた。
ミハエル・シューマッハ vs. ミカ・ハッキネン:2000年 F1イタリアGP(モンツァ)
お互いを高く評価していたシューマッハとミカ・ハッキネンだが、このレースでは激しい火花を散らした。
1998年シーズンのイタリアGP、“初代アイスマン” ことハッキネンはスピンを喫してグラベルトラップにはまり、モンツァの森の中で人知れず悔し涙を流した。しかし、ハッキネンはこのあと1998年シーズンのチャンピオンに輝き、モンツァでの雪辱を果たした。
それから2年後、シューマッハにとって2000年シーズンのモンツァはキャリア屈指の勝利の舞台となる。
シューマッハはハッキネンの猛追を最後までしのぎ、それまで6戦連続で勝利に見放されてきた不運を払拭すると共に、故アイルトン・セナの通算41勝に並んだ。
いつになく感傷的になっていたシューマッハは、レース後の記者会見で人目もはばからず号泣。その心情を誰よりも理解していたであろうハッキネンはシューマッハの肩にそっと手を置き、記者たちに対して「しばらくそっとしておいてくれ」と伝えた。
そしてシューマッハは同年シーズンにフェラーリ移籍後初のチャンピオンを獲得。人前での涙はF1での成功の秘訣なのかもしれない…。
アラン・プロスト vs. アイルトン・セナ:1990年 F1日本GP(鈴鹿サーキット)
F1史上最も熾烈なライバル関係と呼べる2人の関係には、ハリウッドの大作映画シリーズさながらの物語性があった。歴代最高に数えられるドライバー2人が、死力を尽くして対決したのだ。
アラン・プロストは “プロフェッサー” という異名を取るほどの計算高さを備えた、隙のないプロフェッショナルなドライバーだった。一方、アイルトン・セナは大胆不敵な異端児で、そのリスクを恐れぬ姿勢と天賦の才能で知られていた。
この2人の巨星はマクラーレンで2年シーズンチームメイトとして過ごしたが、その関係は険悪なものに終わった。
プロストは1989年シーズンにセナを倒してチャンピオンを獲得すると、翌1990年シーズンにフェラーリへ移籍。彼はフェラーリに対し、いかなる場合でもセナをチームメイトとして雇用してはならないという条件を提示していたと言われている。
その1990年シーズン、第15戦日本GPを迎える時点でチャンピオンシップをリードし、王手をかけていたのはセナだった。セナは予選でポールポジションを獲得し、プロストは2番手につけた。
決勝レース前、セナはプロストのスターティンググリッド(アウト側)のほうが有利だと主張し、プロストが好スタートを切るようなら必ず1コーナーでプロストの前に出ると誓っていた。
いざレースがスタートすると、セナが予想していた通りの展開となった。ただし、セナが外部に打ち明けていなかったプランの中には、プロストが乗るフェラーリのサイドへ突っ込み、そのままコースアウトさせて2人ともレースをリタイアするというプランも含まれていた…。
なぜなら、共にリタイヤとなっても、セナはワールドチャンピオン獲得に十分なポイント上のアドバンテージを維持できたからだ。そしてこの “特攻” はプロストがレースでセナを逆転するチャンスを確実に奪ったのだった…。
カテゴリー: F1 / F1ドライバー