ジェンソン・バトンが語る意外な真実「最高のF1マシンはブラウンGPではない」

現在すべてのモータースポーツから引退したバトンは、改めて自身のキャリアを振り返り、2011年に駆ったマクラーレンMP4-26こそが「F1で運転した中で最高のシングルシーターだった」と明かした。
バトンは2000年から2017年まで306戦を戦い、15勝・50回の表彰台・8回のポールポジションを記録した。2009年はそのうち6勝を挙げたキャリア唯一のタイトルシーズンだが、本人の評価は別のマシンに向いている。
ホンダ撤退から“奇跡の王者”誕生へ…ブラウンGPの激動の2009年
2008年末、ホンダは世界的金融危機の影響でF1からの即時撤退を発表。チーム存続は風前の灯火となったが、ロス・ブラウンがわずか1ポンドで買収し、ブラウンGPとして再出発した。
メルセデスが土壇場でエンジン供給を決めたことで、設計段階から大きな変更を強いられたが、それでもチームは開幕前最後のテストを欠席した状態からシーズンへ突入した。
しかし、車体後部のダブルディフューザーが大きな武器となり、バトンは開幕7戦で6勝という圧倒的なシーズン前半を築いた。
ブラジルGP時点でセバスチャン・ベッテルの追撃を15ポイント差で振り切り、1戦を残して初のワールドチャンピオンに到達。ブラウンGPも同年のコンストラクターズタイトルを獲得し、チーム唯一のシーズンで歴史的成果を残した。

それでもバトンにとって“最高の1台”はBGP001ではなかった
キャリアの頂点をもたらしたブラウンGPのマシンについて、バトンは「素晴らしい思い出」とした一方で、“ベストカー”には挙げなかった。
バトンは次のように語っている。
「僕にとって最高のマシンは2011年のマクラーレンだった。F1で運転した中で、あれがベストのシングルシーターだ」
さらに2004年のBARホンダもお気に入りだという。
「2004年のBARホンダはフィーリングが本当に良かった。フレキシブルなリアウイングがあって、V10エンジンのパワーは信じられないほどだった。僕は10回の表彰台を獲得したけど、勝利には届かなかった」
そしてブラウンGPについてはこう振り返る。
「みんな『あれが最高のマシンだったはずだ』と言うけど、2008年のハイダウンフォースから2009年はローダウンフォース規定になったからね。ブラウンは他より優れてはいたけど、極端に速いわけではなかった。弱点もあった」

2011年マクラーレンMP4-26──“最強ではないが最高に手に馴染むマシン”
2011年といえば、レッドブルのRB7が圧倒的な速さでシーズンを席巻し、セバスチャン・ベッテルが13勝を挙げた年だ。しかし、バトンはその“最強マシン”の陰で、自身にとっての“最高マシン”を操っていた。
MP4-26はRB7には及ばなかったが、バトンはシーズン2位を獲得。全19戦中12回の表彰台、最終9戦中8回の表彰台という安定性を発揮し、キャリア最多の年間表彰台数を記録した。
この事実こそ、バトンが“性能が最強=最高”とは考えていなかったことを象徴している。
ダブルディフューザーと低開発、それでも勝てた2009年の“特異性”
バトンは2009年の強さについて、あのダブルディフューザーの存在が決定的だったと語る。ホンダが撤退前に開発していたアイデアで、ウィリアムズやトヨタも類似の設計を導入し、他チームは抗議したものの規則上は合法とされた。
しかしブラウンGPは資金難でシーズン中の大規模アップデートがほとんどできず、後半戦になるとライバルの猛追を受ける形となった。
それでも序盤の大量得点で逃げ切った点に、この年の“特殊性”がある。
引退を迎えて改めて見えた“本当に好きなマシン”
バトンはキャリアを通してウィリアムズ、ベネトン、ルノー、BAR、ホンダ、ブラウンGP、マクラーレンと渡り歩き、F1で306戦を経験した。
その長い道のりの中で、彼が最後に選んだのは、タイトルをもたらしたブラウンではなく、**2011年マクラーレンという「自分の手に最も馴染んだマシン」**だった。
結果ではなく“ドライビングの感覚”を基準にしたこの選択は、バトンらしい冷静な視点と職人肌のレーサー気質を感じさせる。
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