野尻智紀 「リアム・ローソンは日本人ドライバーにとっていいベンチマーク」
ここ2シーズン、ホンダの野尻智紀はチーム無限で連覇を達成し、疑いの余地のないスーパーフォーミュラの王者となった。今季は、1986年に中嶋悟が達成して以来となる、国内最高峰のシングルシーター選手権3連覇を目指している。

しかし、野尻のトップへの道のりは決して平坦なものではなかった。スーパーフォーミュラでは遅咲きの選手であり、タイトルを獲得したのは参戦8年目のシーズンだった。

速さには定評があった野尻だが、一貫性に欠けることが多く、一時はそのポテンシャルを発揮できないのではないかと思われたこともあった。

同じことが彼のキャリアの初期にも当てはまりました。10代だった野尻は、それまでの日本での好成績を背景に、2007年にイタリアのカートメーカー、トニーカートの代表としてヨーロッパで活躍するチャンスに恵まれた。しかし、しかし、野尻はなかなかインパクトを与える結果を残すことができなかった。それは当時の自分の未熟さのせいだと彼は部分的に考えている。

「精神的な面も含めて、あらゆる意味でまだ子供でした」と野尻は振り返る。

「日常生活の中で、自分のことをきちんと見ることができなかった。日々の生活を送るだけでも大変で、レースに集中できなかった。最初は日本から何人かが付き添ってくれていたのですが、1週間ほどで『帰るよ!』と言われ、1人になってしまいました」

「いい結果を残せず、精神的にどんどんきつくなっていきました。全力を出し切れず、諦めようと思ったこともありました。ベストパフォーマンスが出せなかったことは、今でも悔いが残っています」

2008年に帰国した野尻は、鈴鹿レーシングスクール(現ホンダ・レーシングスクール)を卒業し、トップ・スカラシップを獲得してフォーミュラ・チャレンジ・ジャパンに参戦。2011年には全日本F3にステップアップしたが、その前にフォーミュラBMWでマカオに参戦し、将来のF1スターであるカルロス・サインツJr.に次ぐ2位という素晴らしい成績を残した。

野尻はF3で好成績を収めれば、マカオのメインイベントで再びレースをするチャンスが訪れ、ヨーロッパでのレースに再挑戦できるかもしれないと期待していた。しかし、1勝とわずかな表彰台という成績は、その扉を開くには十分ではなかった。

「当時、日本人ドライバーは日本のF3に参戦し、その後マカオで好成績を収めなければヨーロッパでレースができないというのが共通認識でした」と野尻は説明する。

「心の中ではヨーロッパでレースをするチャンスはまだあったのですが、なかなか結果が出なかった」

「ある段階では(2012年の)岡山で優勝して、次のレースで勝てばマカオに連れて行ってくれると言われましたが、残念ながら次のレース(菅生)では結果が出ませんでした。チャンスはあったけど、それを掴むには力不足でした」

2013年のF3でホンダ勢のジュニア最上位に輝いた野尻は、翌シーズンにGP2出場の伊沢拓也に代わってダンデライオンレーシングからスーパーフォーミュラ・デビューを果たした。しかしこの年、初優勝を飾ったものの、それ以外のレースでポイントを獲得することはできなかった。

「菅生で初勝利を挙げたのは、チームの努力のおかげです」と野尻は振り返る。

「1年目だったので、ほとんど何もわからない状態でしたが、経験豊富なエンジニアにサポートしてもらい、ポテンシャルを発揮できる環境を整えてもらいました」

「でも、ミスをすることもあったし、自分の限界がどこにあるのかわからなくて、プッシュしすぎたり、慎重になりすぎたりしたこともあった。予選では比較的速かったが、レースではペースが足りなかった」

「チームとしてそれを克服することはできなかった。何度か表彰台に上ったけれど、チャンピオンシップを争うような状況にはなりませんでした」

野尻がスーパーフォーミュラの常連から現在のような圧倒的な存在へと変貌を遂げるには、2つの重要な瞬間があった。ひとつは2016年、シリーズ参戦3年目のシーズンにダンデライオン・チームでストフェル・バンドーンとコンビを組んだときだった。

マクラーレンのジュニアだったバンドーンはGP2タイトルを獲得した直後に来日し、明らかにF1を目指していた。スーパーフォーミュラに参戦して以来初めて、野尻はチームメイトに劣勢を強いられることになる。しかしその過程で、野尻は重要なことに気づいた。

「当時は正直なところ、『どうやったら勝てるんだろう?』『勝つなんて不可能だ』とさえ思っていました」と野尻は最初の2シーズンを振り返る。

「でも、ストフェルが来てすぐに勝ち始めた。可能だと思わせるには十分でした」

「とてもいい刺激になり、自分にはもっとできることがあるということに気づかせてくれました。以前は『これが自分の限界だ』と思っていましたが、それは自分自身に課していた限界だと気づきました」

バンドールがF1に卒業した後、野尻の安定しない調子はさらに2シーズン続いた。それは2019年、山本尚貴がダンデライオンに移籍するのと入れ替わる形でチーム無限に移籍したことだった。

当初、野尻の成績は前所属チームでの成績と比較して著しく優れていたわけではなかった。しかし、本当の転機はシーズン最終戦の鈴鹿で、ついにルーキーイヤーの5年前以来の勝利を挙げた。

「鈴鹿で優勝した後、次のオフシーズンにチームから『もっと言いたいこと、思っていることを言いなさい』と言われました」と野尻は言う。

「海外のファンにとっては当たり前のことかもしれませんが、日本人にとっては難しいことなんです」

「一日の終わりに、結果を生み出すのは自分だということに気づきました。チームの判断は正しかったので、今振り返るともっと声を上げておけばよかったと後悔しています。それからは考え方を変えて、思ったことは必ず言うようにしました」

「相手を不快にさせることもあるので、言い方を工夫してうまくコミニュケーションをとることも必要ですが、とにかく言うべきことは言う。そうやって一歩一歩、この強いチームを作り上げてきました」

野尻が無限で圧倒的な力を発揮している理由のひとつに、レースエンジニアの一瀬俊浩の存在がある。野尻がダンデライオン時代、田中耕太郎や杉崎公俊といった高名なベテランエンジニアとともに仕事をしていたのに対し、一瀬がレースエンジニアとしてデビューしたのは、野尻がチームに合流する前年の2018年のことだ。

野尻は、珍しく自分が監督するドライバーより2歳年下の一瀬との間に存在する力関係が、最近の成功の鍵になったと考えている。

「経験豊富な年上の人と話していると、間違っていても『ああ、そうですか...』と言ってしまう傾向があるんです」と野尻は説明する。

「一方、一瀬と一緒に仕事をし始めた頃は、まだお互いにわからないことだらけだった」

「アイデアはたくさんあったので、『こうしたらどうだろう?これはうまくいくだろうか?』といろいろ試し始めました。もちろん、彼は僕のアイデアに耳を傾けてくれる。そして、試した結果が僕たちの経験となり、共通認識のようなものになっていきました」

「レースウィークというのは、パズルのピースを組み合わせていくようなもので、それは僕たちが得意とするところだと思います。そしてそのやり方はチーム全体に浸透していったと思います。彼らのサポートなしには、今の仕事はできませんした」

リアム・ローソン レッドブル F1F1昇格が期待されるレッドブルの育成ドライバーであるリアム・ローソン

野尻はこれまで、チーム無限での5シーズンでそれぞれ異なるチームメイトとコンビを組んできた。しかし、レッドブルのジュニアドライバーであり、F1を目指すリアム・ローソンは、2度のチャンピオンに輝いた彼にとって、今シーズン、これまでで最も厳しい挑戦をもたらしている。

野尻はローソンについて、「彼は僕ら日本人ドライバーにとっていいベンチマークだし、僕は他のどのドライバーよりも彼に近いので、彼と比較されるのは避けられません」と言う。

「ここ数年、外国人ドライバーはそれほど多くありませんでしたが、ヨーロッパのトップで戦えるドライバーはとても速いです。ストッフェルと戦ったときの感覚を思い出させますね」

野尻は、ローソンの脅威に加えて、気胸(肺虚脱)によりオートポリスでのレースを欠場したことは言うまでもなく、旧型SF19よりもダウンフォースが少ない今年の新型SF23マシンに適応するという大きな課題に直面している。

これらのハードルを乗り越えて3度目のタイトルを獲得し、中嶋と肩を並べることができれば、それは紛れもなく日本モータースポーツ界の“オールタイム・グレート”の称号を得ることになるだろう。

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カテゴリー: F1 / スーパーフォーミュラ