マクラーレンF1創設者ブルース・マクラーレンの墓が金色塗装と玩具で損壊

マクラーレンは1970年6月、英国でCAN-AMマシンのテスト中に事故死しており、妻のパトリシア(2016年没)とともに同墓地に埋葬されている。
墓石は金色の塗料で覆われ、さらにブルースとパトリシアの墓には小さな玩具の車が貼り付けられていたという。もともと黒く塗りつぶされていた「until we meet again Darling(また会う日まで、ダーリン)」の文字も金色で塗り直されていた。また、マクラーレンの両親や、妹夫婦の墓も漂白剤で汚されるなど、複数の被害が確認された。
被害は墓地の修復・保護活動を行う団体「Grave Guardians」のジョージ・スチュワート=ダルゼル氏によって9月末に発見された。修復作業が始まった後も、犯人は複数回現場に戻り、保護のためにかけられた覆いを剥がすなど、執拗な行動を繰り返したとされる。なお、周囲の他の墓にも同様の被害が確認されたが、現地メディア「Stuff」によると、加害者は“修復を試みていた可能性”も指摘されている。
ブルース・マクラーレン・トラストは声明で次のように述べた。
「オークランドのワイクメテ墓地にあるブルース、パティ、ルース、ポップの墓が最近破損されたことをお伝えしなければならないことを非常に遺憾に思います。金色の塗料がかけられ、玩具の車が貼り付けられていました。なぜこのようなことをするのか、言葉を失っています」
「墓石修復を行うボランティア団体『Grave Guardians』が、被害修復を申し出てくれました。私たちは心から感謝しています。修復作業の間、墓石は保護のため覆われており、現在は見ることができません」

知らぬ間に初優勝を挙げたブルース・マクラーレン
ブルース・マクラーレンは1958年にF1デビュー。1959年に初優勝を挙げ、1960年にはドライバーズ選手権2位に輝いた。しかしその後は優勝から遠ざかり、自身のチーム「マクラーレン」を設立して運命を切り開くこととなる。
1966年にチームを立ち上げ、翌年のベルギーGPでマクラーレンにとっての初勝利を記録した。6番グリッドからスタートしたブルースは、最終ラップでジャッキー・スチュワートが燃料切れのためピットインしたことで、結果的にトップに浮上していた。
「チェッカーフラッグを見て手を振り、ピット裏に戻ってトランスポーターまで車を走らせた。2位でも悪くないと思っていたんだ」
その後、通りかかったBRMのメカニックが彼に声をかけた。
「『優勝したんだ、知らなかったのか?』と言われた。それは今までで一番うれしい言葉だった」
現在のマクラーレンとブルースの遺産
マクラーレンは1966年からF1に参戦しており、現存する中ではフェラーリに次いで2番目に長い歴史を持つチームである。これまでにコンストラクターズタイトルを10回獲得しており、もしランド・ノリスまたはオスカー・ピアストリが今季ドライバーズタイトルを獲得すれば、ドライバーズチャンピオンの通算数は12から13に伸びることになる。
ブルース・マクラーレンの名は、チームのDNAと共に今も生き続けている。
マクラーレンの遺産を汚した愚行と、その象徴的意味
今回の事件は単なる器物損壊ではなく、モータースポーツ史に深く刻まれた象徴的存在への冒涜と言える。ブルース・マクラーレンは単なる創設者ではなく、「情熱と革新を融合させた人物」として、多くのエンジニアやドライバーの指針であり続けている。
ワイキングのテクノロジーセンターに掲げられた「To do something well is so worthwhile that to die trying to do it better cannot be foolhardy(何かを極めようとすることは、それをより良くしようとして命を落とすほどの価値がある)」という彼の言葉は、今もチームの哲学そのものだ。
マクラーレン創設者の遺産に対する衝撃と悲しみ
この事件は、F1チーム「マクラーレン」の名を冠した創設者への敬意を汚す行為として、ファンやモータースポーツ関係者の間で大きな波紋を呼んでいる。
ブルース・マクラーレンは1963年にチームを設立し、その精神は今日のマクラーレン・レーシングにまで受け継がれている。世界中で崇敬される彼の功績に対し、家族の墓が標的になったことは極めて異例であり、ニュージーランド国内でも文化的遺産の保護をめぐる議論が高まっている。
墓の修復が完了し、ブルースの名が再び穏やかにその地に眠る日が早く訪れることを、多くのファンが願っている。
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