ホンダF1撤退の真実 ブラウンGP共同創設者が明かす「涙の会議」と奇跡の2009年
2009年、ホンダのF1撤退を受けて誕生したブラウンGPは、ジェンソン・バトンとともにドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトルを獲得し、モータースポーツ史に残る"奇跡"を成し遂げた。

しかし、「1ポンドでチームを買収し世界王者になった」という有名な逸話の裏側には、700人の雇用を守るための決断や、ホンダ撤退を涙ながらに告げた日本人幹部との会談など、これまであまり語られてこなかった壮絶なドラマがあった。ブラウンGP共同創設者のニック・フライが、その舞台裏を振り返った。

「予算削減」だと思っていた会議で告げられたF1撤退
2008年11月28日、ロンドン・ヒースロー空港近くのホテルで、フライとロス・ブラウンはホンダ幹部との会談に臨んだ。

当時、世界金融危機の影響で自動車業界は大きな打撃を受けており、フライたちは40~50%規模の予算削減を覚悟して会議へ向かった。

しかし、そこで告げられたのは想像をはるかに超える決断だった。

「ホンダはF1を続けることができない」

小さな会議室で対面した日本人幹部は涙をこらえながら説明したという。

フライは当時を振り返り、「ホンダにはF1で素晴らしい歴史があり、その決断がどれほど苦しいものだったかは痛いほど伝わってきた」と語る。

しかし、その直後に待っていた次の会議では、約20人のホンダ関係者を前に「700人の従業員に工場の電気を消して帰宅するよう伝えてほしい」という趣旨の説明を受けた。

フライは、その提案を受け入れることはできなかった。

「そんなことはできない。時間をくれ。別の方法を探させてほしい」

そう強く訴えたことが、ブラウンGP誕生への第一歩となった。

ホンダ F1 撤退

700人の雇用を守るために始まった買収交渉
ホンダ撤退後、フライとブラウンはチーム存続へ向けて動き始める。

最大の課題は、ホンダが巨額を投じて築いたF1チームを、なぜ譲渡する必要があるのかを納得してもらうことだった。

そこで提示したのが「チームを閉鎖する方が高くつく」という試算だった。

風洞設備や工作機械など、F1専用施設は他業種では価値が低く、700人規模の退職金や設備処分費用まで含めると、チームを解散させる方がはるかに多くの費用が必要になる。

ホンダは外部コンサルタントを起用して試算を検証。その結果、フライらの見積もり以上に閉鎖コストが高額になることが判明した。

こうして、チーム譲渡という道が現実味を帯びていった。

一方で、フライ自身も大きなリスクを背負うことになる。

妻のケイトとは、後に象徴的な会話を交わしたという。

「もし全財産を失って、一生ツナ缶だけで暮らすことになっても大丈夫か?」

夫婦で出した答えは、「それでもやってみよう」だった。

「挑戦だと思った。信じることが何より大切だった」とフライは振り返る。

エンジンもスポンサーもない開幕前
チーム存続が決まっても、問題は山積みだった。

ホンダ製エンジンの継続使用を打診したものの断られ、新たなパワーユニットを探さなければならなかった。

最終的にフェラーリとメルセデスの双方がエンジン供給を申し出る中、メルセデス製エンジンを搭載することが決定した。

一方でスポンサーも不足し、バージンとの契約がまとまったのはオーストラリアへ向かう飛行機に乗る直前だったという。

資金不足から約400人を削減し、残されたスタッフは24時間3交代制で開幕戦へ向けてマシンを完成させた。

日本人若手エンジニアが生み出したダブルディフューザー
ブラウンGP成功の象徴として知られるダブルディフューザー。

しかしフライは、その発想が「若い日本人空力エンジニア」から生まれたことを明かしている。

会議で最も若い立場だったそのエンジニアは、規則を文字通り読み込み、新しい解釈を提示した。

当初は周囲も「そんなことはできない」と考えたが、議論を重ねる中で画期的なアイデアであることが判明する。

英語を第二言語として読んだからこそ、先入観にとらわれず条文をそのまま解釈できた可能性もあったという。

ただしフライは、「世界王者になれた理由はダブルディフューザーだけではない」と強調する。

「ウィリアムズもトヨタも同じコンセプトを持っていた。」

「違いはチームだった。」

互いを支え合い、自分の仕事だけでなく仲間の仕事も助ける文化こそが最大の強みだったと語っている。

ブラウンGP

開幕戦メルボルンで起きた"奇跡"
2009年開幕戦オーストラリアGP。

ブラウンGPはほとんどテストを行えないまま現地入りした。

クラッシュすれば交換部品がない。

給油担当者は実戦で給油した経験すらなかった。

それでも予選から圧倒的な速さを見せ、ジェンソン・バトンとルーベンス・バリチェロが開幕戦で1-2フィニッシュを達成する。

フライは「あらゆる場面で失敗する可能性があった。それでもチーム全員が期待以上の仕事をした」と振り返る。

「喜びではなく安堵だった」世界王者獲得
シーズン後半になると資金不足から開発競争で苦戦し、レッドブルが急速に迫ってきた。

バトンには世界王者獲得への重圧がのしかかり、ブラジルGPまでタイトル争いは続いた。

そして世界王者が決まった瞬間、フライが感じたのは歓喜ではなかった。

「まず感じたのは、とてつもない安堵だった。」

「ああ、終わった。やり遂げることができた。」

そう振り返る彼にとって、2009年は単なるチャンピオン獲得のシーズンではなく、700人の雇用を守り、チーム全員で不可能を可能にした一年だった。だからこそ今でも、「ブラウンGP最大の武器はダブルディフューザーではなく、互いを信頼し、挑戦を許容するチーム文化だった」と言い切るのである。

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カテゴリー: F1 / ホンダF1 / ブラウンGP