ホンダF1を第2期に導いたスピリットの共同所有者ジョン・ウィッカムが死去
ホンダF1を第2期に復帰させたスピリット・レーシングの共同所有者であり、ベントレーの2003年ル・マン24時間レースでの勝利を監督したジョン・ウィッカムが、長い闘病生活の末、73歳で亡くなった。

1983年にホンダをF1に復帰させたスピリット・レーシングでの役割、およびスピード8 LM-GTPクーペでル・マンで勝利を収めたベントレーのチームディレクターとしての成功は、ジョン・ウィッカムの50年にわたるモータースポーツマネジメントのキャリアのさまざまな歴史の2つの章にすぎない。

2019年に運動ニューロン病と診断されたジョン・ウィッカムは、世界中のさまざまなレースカテゴリーで複数のメーカーで働いていた。

1979年にマーク・スラーがヨーロッパF2選手権で優勝したとき、マーチ・エンジニアリングのチームマネージャーを務め、1996年にアウディがフランク・ビエラと共に英国ツーリングカーチ選手権のタイトルを獲得したとき、アウディスポーツUKのチームマネージャーを務めていた。

また、2005年から2009年までの4シーズンにわたって、A1グランプリのテクニカルおよびオペレーション担当ゼネラルマネージャーを務めた。

ジョン・ウィッカムは、2012年の初めにベントレーに戻り、コンチネンタルGT3レーサーでベントレーのモータースポーツへの再参入を指揮し、2014~15年にはファクトリー Mスポーツのチームマネージャーを務めた。

ベントレー・モータースポーツの長年のボスであるブライアン・ガッシュは「常にすべてを把握していたマスター・オーガナイザー」だとジョン・ウィッカムについて語った。

「それがGT3プログラムを行ったときにジョンを呼び戻した理由だ。彼はFIAホモロゲーションのすべての複雑さを処理するのに理想的な人物だったからだ」とブライアン・ガッシュは語った。

ジョン・ウィッカムのモータースポーツキャリアは、ブリティッシュ・オートモービル・レーシング・クラブの競技マネージャーとして始まり、23歳で1973年シーズンのF2オペレーションを管理するためにサーティーズに加入した。

BARCでのさらなるスティントの後、ジョン・ウィッカムは1979年にマーチでF2パドックに戻った。ビスターに本拠を置くコンストラクターに在籍中にホンダと接触した結果、1980年に導入された2リッター V6エンジンを搭載したF2プログラムに専念するチームを設立するよう招待された。

1981年末、ジョン・ウィッカムは、マーチのライバルであるホンダのモータースポーツ責任者だった川本信彦からスカウトされ、同僚デザイナーのゴードン・コパックとともにマーチから離脱。ホンダの出資によってスピリット・レーシングを設立。スピリットは1982年からホンダエンジンを積んでヨーロッパF2に参戦し、その後ホンダエンジンがF1に参入するための共同プロジェクトであった。

1982年のF2で、ホンダのF2用エンジンを搭載したスピリット・201でマールボロがメインスポンサーとなった2台の車を走らせた。ティエリー・ブーツェンは3つのレースで優勝し、ヨーロッパF2ランキング3位になった。チームメイトのステファン・ヨハンソンは5度のポールポジションを獲得しランキング8位だた。

シーズン終了後の11月24日、スピリットはF2用シャーシ「201」に新しいホンダのターボチャージャー付きF1エンジン「RA163E」をジョイントさせてティエリー・ブーツェンがシルバーストンで初走行。スピリット・ホンダは、6戦に出場した。

だが、ホンダはスピリットとのF1参戦はあくまでも「実戦テスト」だと考えており、勝利のためにウィリアムズF1と交渉。ウィリアムズは1984年にホンダのF1エンジンの独占供給を要求したことで、スピリットは年末にエンジン契約を失った。

スピリットはハート製エンジンで1984年シーズンを開始し、あるレースではコスワースDFVを使用したが、ピレリのタイヤ供給権利をトールマンに売却してF1から去った。

その後、ジョン・ウィッカムは、TOM’S GBチームに参加した後、1987年に初めてル・マンに挑んだ。

1989年からジョン・ウィッカムは、日本のフットワーク F3000チームの運営を引き継ぎ、1990年1月にフットワークがアロウズを買収すると、彼はフットワークF1チームのディレクターになった。その後、オペレーションのディレクターになり、1991年からはチームマネージャーも務めた。

だが、これがジョン・ウィッカムのF1での最後の進出ではなかった。2011年のF1エントリーに先立ち、HRTチームに派遣されました。その後、その年の後半にロータス・ルノーGPで短命の管理職として再びF1に復帰した。

英国からの参入者であるリチャード・ロイドと協力した2つの期間は、ジョン・ウィッカムの最大の成功をもたらした。

1996年から1998年にかけて、15のBTCCレースで優勝したアウディ・スポーツUKのチームを編成し、1999年のルマンでは不運なアウディR8Cクーペを走らせた。

アメリカン・ル・マン・シリーズと元スピリットとフットワークのドライバーであるステファン・ヨハンソンのために1年間レイナードLMP車を走らせた後、ジョン・ウィッカムは、チーム・ベントレーでロイドと再会した。

2003年のルマン優勝後、ベントレーはモータースポーツをやめ、ジョン・ウィッカムはイギリスのコンストラクター、ザイテックのLMPプログラムの運営を手伝った。

その結果、A1GPの創設者であるシェイク・マクトゥームとの偶然の出会いにつながった。彼は当初、Zytekを搭載したLolaワンメイクカーのテストチームを運営し、次にシリーズのインフラストラクチャをまとめた。これには、シルバーストーンのWoodcoteハンガーにあるすべてのチームのための巨大なベースの調達が含まれる。その後、A1GPが終焉するまで運営責任者を務めた。

ジョン・ウィッカムのベントレーでの2回目のスティントは2017年まで続いgzが、彼は2018年に英国GT選手権でチーム・パーカー・レーシングのチームマネージャーとして働き始める予定だったが、病気に倒れ、その後MNDと診断された。

スピリット・ホンダF1

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カテゴリー: F1 / ホンダF1