ホンダF1の歴史:第1期 「やるなら頂点を目指す。信念のF1チャレンジ」
世界最大のエンジンメーカーであり、最も多くの国際モータースポーツに参加している自動車メーカーであるホンダのモータースポーツの歴史は、22歳で独立し、修理工場を経営し始めた創始者、本田宗一郎が自らの手で創ったレーシングカーでレースに出場したことに始まる。

1936年にはピストンリングの生産を始めて、修理工場から製造業へ転身、48年にはモーターサイクルの製造を開始し、本田技研工業株式会社が誕生した。

当時、国内のモーターサイクルメーカーはレースに参加して自社の優位性をアピールしていたが、ホンダはその中でも強さを発揮していた。54年には日本メーカーとして初めてブラジル、サンパウロにて行われた国際モーターサイクルレースに参加、1959年からマン島TTレース125ccクラスに出場、61年には125cc/250cc両クラスのタイトルを手中にし、世界最大のモーターサイクルメーカーに育っていった。

設計者、メカニック、ライダー、エンジン性能テストマン、材料技術者などが集まり、最大の能力を出し合いながら激しいエネルギーを集中させて、戦後の苦難から立ち上がって作り上げたひとつのモニュメント、それがホンダの1960年代のモーターサイクルレーシングであった。

そして、モーターサイクルの次は自動車だと、ホンダ社内の誰もが思っていた62年に、ホンダはプロトタイプのスポーツカーを発表する。翌年にはホンダ初のスポーツカーであるS500を発売した。次は当然、レースである。やるなら頂点を目指すという目標で、無謀にもいきなりF1にチャレンジすることに決めたのだ。

モーターサイクルレーシングで培った技術に支えられ、「やればできる」という信念が社員全員にいきわたっていた。そして、1963年、最初のプロトタイプのF1マシンRA270ができ上がった。非常に短期間であったが、その製作作業は猛烈に、かつ手際よく進んだ。

エンジンのダイナモテスト、実走行におけるあらゆる項目のテスト、そしてまったく新しいレース用エンジンとマシンの開発という、3つのプロジェクトが同時進行で進められた。そして64年8月2日、ニュルブルクリンクで開催された西ドイツGPにアイボリーホワイトに赤い日の丸というナショナルカラーに塗られたRA271が登場した。デビューレースは、最後尾スタートから9位まで浮上するものの、12周目にクラッシュしてリタイアとなった。しかし、レギュレーションにより完走扱いとなり、デビューレースは13位として記録された。

初年度の3戦で苦心のうちに学んだことを活かし、ホンダのエンジニアはオフシーズンに懸命の研究開発を続け、四輪レースでの経験の浅さを何とかカバーしようと努力を重ねた。そして、65年10月24日、1.5リッターF1最後のレース第10戦メキシコGPにて、リッチー・ギンサーが駆るRA272が初優勝を果たす。

クルマの開発は、新しいことへの挑戦も大切だ。しかし、技術の原則にのっとって手堅く作り上げることもそれ以上に大切であることを学んだ年であった。

■通算2勝を挙げて第1期の活動を終了
1966年は3.0リッターF1の初年度であり、RA273はエンジン出力では他社に引けを取らないまでも、全てが大型化、重量化してしまい、競争力はなかった。翌67年は、ジョン・サーティース率いるチーム・サーティースと提携し、車体はローラ社の協力を得てRA300を開発。9月10日の第9戦イタリアGPにおいてデビューウインを飾る。ホンダ通算2度目の優勝であった。

68年は、水冷エンジンのRA301と空冷エンジンのRA302の2種類のF1マシンを同時に新規開発するという離れわざを行ったものの、64年以来積み重ねてきたF1のノウハウが、結果的には生かしきれない年となった。

69年に向けては、早めに開発のスタートを切ったが、69年に発売予定の小型乗用車の開発に多くのエネルギーが必要になったため、F1活動の休止が決定した。環境問題や排ガス規制、エネルギー危機などといった問題を、自動車メーカーとして成長しながら真っ先に解決するには、厳しく訓練されたエンジニアとそのレーシングスピリットが何よりも大切だったからである。

6年間にわたるF1レース活動におけるチャレンジを経て、ホンダは乗用車メーカーとして大きな成長を遂げた。独自開発によるF1活動の中で修練されてきた技術の多くは、市販車開発に有益に活かされたものの、その後15年にわたってF1の世界からは遠ざかることとなった。

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カテゴリー: F1 / ホンダF1