角田裕毅 インタビュー(1):ホンダとレッドブルとの育成ドライバー契約 / 日本人F1ドライバー誕生への道のり
日本人F1ドライバー誕生への期待がかかっている角田裕毅が、これまでのキャリアを振り返った。

この数年間は角田裕毅にとって激動のシーズンだった。ヨーロッパに戦いの場を移して2年以内、FIA-F3への挑戦はシングルシーターでの経験がわずか3年でのものあり、サーキットの知識はほとんどなかった。

ホンダ・フォーミュラ・ドリーム・プロジェクトとレッドブルからのサポートを受け、角田裕毅はFIA-F3のルーキーシーズンの前半は目立たなかったが、新しい大陸とまったく新しいチャンピオンシップに順応していった。

当時はまだ角田裕毅に何を期待するかを知るのは困難だったが、2年後、彼はFIA-F2のタイトル争いの中心におり、レッドブルの姉妹チームであるアルファタウリ・ホンダF1のシートをめぐる噂の最前線にいる。彼はモータースポーツで最も優秀な若い才能の一人として名を馳せ、大胆で攻撃的でありながら、計算力と賢さを兼ね備えている。身長は160cmとグリッド上で最も背が低いドライバーだが、彼は他のどのドライバーよりも勇気がある。

神奈川で生まれた角田裕毅は、4歳の若さでゴーカートを始めた。父親から4輪か2輪かを尋ねられたときには躊躇うことなく前者を選んだ。ヨーロッパでは14歳でだが、日本の年齢制限によって彼は16歳になるまでカートに制限された。だが、FIA F4日本選手権にステップアップしてすぐに3位を獲得。この選手権では1位と2位に入れば、ホンダのジュニアチームと契約がご褒美として与えられることになっていた。

「彼らは1位と2位のドライバーを選ぶことになっていました」と角田裕毅は振り返る。

「通常、彼らはそうするのですが、それらのドライバーは僕より経験豊富ですでにF4で運転していました。F1でレースをしていた中嶋悟さんが担当し、ホンダに僕とも契約するよう勧めてくれました。最初はまだ公式にはフルのジュニアドライバーではなかったですけどね」

角田裕毅は日本でFIA F4日本選手権でさらに2シーズンを過ごし、3位、そして、チャンピオンを獲得した。その間、彼はホンダジュニアとして正式に確認された。その結果、ホンダが主催したハンガロリンクでのモトパークでの3日間のテストが行われ、角田裕毅はヨーロッパでのシートを勝ち取った。

しかし、提供された契約はこれだけではなかった。

「ヘルムート・マルコは結果を見て、僕をレッドブル・ジュニアにすることに決めました」と角田裕毅は振り返る。

「あのテストはこれまでの僕の人生で最大の瞬間の1つです。もし、あれがうまくいかなかったら、僕は今いるところにはいなかったでしょう。たぶんまだ日本にいたと思います」

レッドブルとホンダが角田裕毅をFIA-F3に参戦させたが、グランプリ週末にF1のサポートレースとして行われることは、角田裕毅にとって一か八かの賭けだった。

「日本では、パフォーマンスと競争力に自信を持っていましたが、これまでヨーロッパでレースをしたことはなく、経験もありませんでした」と角田裕毅は認めた。

「ヘルムートには、もしレッドブルジュニアになるなら、F3の他のドライバーと競争できなければならないと言われました。同じようなレベルでパフォーマンスを発揮する必要がありましたし、結果を出さなければなりませんでした」

「他のドライバーとデータを比較することもできたので、ハンガロリンクでのテストには自信がありましたが、実際にはどのトラックでもドライブしたことはありませんでした」

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カテゴリー: F1 / 角田裕毅 / レッドブル・レーシング / ホンダF1 / スクーデリア・アルファタウリ