レーシングブルズ 新F1チーム代表アラン・パーメインの歩みと人物像

ベネトン時代からF1の現場で長く実績を重ねてきたパーメインは、ルノー、ロータス、アルピーヌを通して数多くのドライバーと仕事をし、勝利と栄光を支えてきた縁の下の力持ちだ。今回はそんな彼の歩みと人物像を詳しくひもといていく。
ベネトンで始まったF1キャリア
エレクトロニクス技術の徒弟修行を終えたパーメインがF1界に飛び込んだのは1989年。ベネトン・チームに加わり、最初はファクトリー勤務からキャリアをスタートさせた。
「22歳になったばかりで、F1で働く仕事に就けたんだ。夢のようだった」と、2020年のF1公式ポッドキャスト『Beyond The Grid』で当時を回想している。
翌1990年にはテストチームの電子技術者として活動し、さらに同年のF1アメリカGP(フェニックス市街地)からレースチームに加わるなど、急速に現場経験を積んでいった。

レースエンジニアとしての躍進
その後もベネトンとともに成功を重ね、1995年にはマイケル・シューマッハと共にコンストラクターズタイトルを獲得。1996年にはジュニアレースエンジニアとしてジャン・アレジを担当し、翌年からは正式なレースエンジニアとしてキャリアを積んでいく。
この間、ジャルノ・トゥルーリやジャンカルロ・フィジケラらと仕事を共にし、2004年モナコGPでトゥルーリが優勝した際にはレースエンジニアとしての「特別な勝利」を経験したと語っている。
また、ルノー時代の2005年・2006年にはチームとして2年連続のダブルタイトルを達成。フェルナンド・アロンソとは直接コンビを組んではいなかったものの、その栄光の一端を担っていた。
チーフエンジニア、そして有名な無線交信
2007年にはルノーのチーフレースエンジニアに昇格。2011年から2016年には、すべてのサーキットでのエンジニアリング業務を統括する立場となった。なお、2012年から2015年の間はチームが「ロータス」の名称で参戦していた。

その間の名場面のひとつが2013年インドGP。ロマン・グロージャンを前に行かせるようキミ・ライコネンに指示を出す無線で、「くそったれ、どけ」と荒々しく叫んだやり取りは今も語り草だ。
「今になって思えば対応の仕方を変えるべきだったかもしれない。ただ、当時はキミが自己中心的に振る舞い、チームに貢献できる状況を無視していたように感じたんだ」と後に振り返っている。
スポーティングディレクターとしての時代、そして別れ
2016年、ルノーがチームを再び買収すると、パーメインはスポーティングディレクターに任命される。2020年にはチーム名が「アルピーヌ」に変更されたが、その後も現場でのリーダー的存在として貢献を続けた。
ハイライトの一つが2021年ハンガリーGPでのエステバン・オコンによる劇的勝利だったが、組織再編の波に飲まれ、2023年ベルギーGPを最後にチームを離脱。当時のチーム代表オトマー・サフナウアーとともに退任した。
レーシングブルズでの再出発、そして代表就任
F1界を一時離れたパーメインだったが、2024年1月にローラン・メキース体制下のレーシングブルズにレーシングディレクターとして復帰。再びF1の最前線に戻った。

それから1年半後、メキースのレッドブルCEO就任に伴い、チーム代表としての新たなチャレンジが始まる。
「チーム代表という役割を引き受けられることを光栄に思う。オリバー(ミンツラフ)とヘルムート(マルコ)に感謝したい」とパーメインはコメント。
「これまでピーター(バイエル)やローランが進めてきた取り組みを、今後も継続して前進させていく。新たな挑戦だが、このチームの全員が支えてくれると確信している」
カテゴリー: F1 / ビザ・キャッシュアップRB