ホンダF1 第2期終了を振り返る 「バルブがはじけて体力が弱ってきた」
ホンダは1992年をもって第2期F1活動を終了する。当時ホンダの社長を務めた川本信彦の言葉で当時を振り返る。
1991年、アイルトン・セナが開幕4連勝するものの、マシンの挙動は精彩を欠き、第5戦あたりからウィリアムズ・ルノーに一歩遅れを取るようになった。この年は、苦戦を続けながらもチームを挙げての努力により、8勝を挙げ、コンストラクターズチャンピオン通算6回目、ドライバーズチャンピオン通算5回目を達成した。
しかし、ホンダのV10エンジンとウィリアムズ・ルノーV10エンジンとを比較すると、出力では差がなくなりつつあった。また、コーナリングではシャーシとエンジンのバランスが悪く、旋回速度の低下は避けられなかった。加えて、F1での技術競争は、コンピューターの制御技術のみならず、燃料の調合比の研究という、化学分野にも及んできていた。
1992年は数々の基礎研究の成果をすべて投入。新型V12気筒を製作し戦ったが、第1戦から第5戦までウィリアムズに各サーキットで先行される状態が続いた。結局、1992年は5勝にとどまったが、そのうちの1勝はオーストラリアでの最終戦であった。
10年間戦い続けてきたホンダF1チームにとっても、このレースは最後の戦いの場となる。チームメンバーたちは、これまでのすべての力をエンジンに、そしてドライバーたちに託した。
マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナとウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルは、途中までトップで接戦を繰り広げたが、19周目で追突し、両者ともリタイア。この痛手をカバーするかのように、終盤、ゲルハルト・ベルガーがトップに躍り出た。後続車に0.74秒差まで追撃されたが、これを振り切ってチェッカーフラッグを受け、有終の美を飾ったのである。
『本田技研がF1撤退へ』
1992年7月18日、朝日新聞の一面トップの見出しには、この文字が大きく刷られていた。
記者にそれとなく話した川本信彦は、ホンダのF1休止が、朝日のトップニュースとして扱われるとは思ってもみなかった。それだけホンダのF1活動がレース運営だけでなく、広報活動も含めて、10年間で日本に深く根付いてきた証だった。
第2期のF1休止について、川本信彦は次のように語る。
「本来のレースの意義がなくなってきたんだよね。人気が出てきたものだから、世間はF1でホンダが勝つものだという期待を、常にかけてくる。だから、技術的に冒険はしなくなった。チームメンバーにも疲れが出てきた。もう一つは、人気だけ上がったけれど、主にヨーロッパの商売は全然進まない。それに、会社全体としても、体力が弱ってきた。バブルがはじけて、ホンダを取り巻く環境から言っても、一度、見直す時期を迎えたということですね」
1992年9月、F1休止に当たっての社長メッセージが、ホンダの全事業所で放送された。第2期F1再開の原動力となり、レースにかける情熱では、ホンダの中では人後に落ちない川本信彦が、自らの肉声で、F1休止の決断を従業員に伝えたのである。
川本信彦はF1へのチャレンジの意義と次世代を担う人々への期待について、次のように語る。
「ホンダはF1屋じゃないんだよね。最高峰のものに、無手勝(むてかつ)流で挑む。猛烈に厳しいんだけども、それこそ岸壁の垂直登攀(とはん)みたいに、一歩誤れば落っこちるような状態で、それを成し遂げていくことに意義がある。『F1を私にどうしてもやらせてください』という人が出てくることが望ましいですね。技術や商品で引っ張っていく会社ですから、それらを生み出す人たちがそういうスピリットを持ち続けていく、自己研鑽(けんさん)を重ねるという伝統をつくることは、会社の百年の計のためにはすごく大事なことですよ」
カテゴリー: F1 / ホンダF1
1991年、アイルトン・セナが開幕4連勝するものの、マシンの挙動は精彩を欠き、第5戦あたりからウィリアムズ・ルノーに一歩遅れを取るようになった。この年は、苦戦を続けながらもチームを挙げての努力により、8勝を挙げ、コンストラクターズチャンピオン通算6回目、ドライバーズチャンピオン通算5回目を達成した。
しかし、ホンダのV10エンジンとウィリアムズ・ルノーV10エンジンとを比較すると、出力では差がなくなりつつあった。また、コーナリングではシャーシとエンジンのバランスが悪く、旋回速度の低下は避けられなかった。加えて、F1での技術競争は、コンピューターの制御技術のみならず、燃料の調合比の研究という、化学分野にも及んできていた。
1992年は数々の基礎研究の成果をすべて投入。新型V12気筒を製作し戦ったが、第1戦から第5戦までウィリアムズに各サーキットで先行される状態が続いた。結局、1992年は5勝にとどまったが、そのうちの1勝はオーストラリアでの最終戦であった。
10年間戦い続けてきたホンダF1チームにとっても、このレースは最後の戦いの場となる。チームメンバーたちは、これまでのすべての力をエンジンに、そしてドライバーたちに託した。
マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナとウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルは、途中までトップで接戦を繰り広げたが、19周目で追突し、両者ともリタイア。この痛手をカバーするかのように、終盤、ゲルハルト・ベルガーがトップに躍り出た。後続車に0.74秒差まで追撃されたが、これを振り切ってチェッカーフラッグを受け、有終の美を飾ったのである。
『本田技研がF1撤退へ』
1992年7月18日、朝日新聞の一面トップの見出しには、この文字が大きく刷られていた。
記者にそれとなく話した川本信彦は、ホンダのF1休止が、朝日のトップニュースとして扱われるとは思ってもみなかった。それだけホンダのF1活動がレース運営だけでなく、広報活動も含めて、10年間で日本に深く根付いてきた証だった。
第2期のF1休止について、川本信彦は次のように語る。
「本来のレースの意義がなくなってきたんだよね。人気が出てきたものだから、世間はF1でホンダが勝つものだという期待を、常にかけてくる。だから、技術的に冒険はしなくなった。チームメンバーにも疲れが出てきた。もう一つは、人気だけ上がったけれど、主にヨーロッパの商売は全然進まない。それに、会社全体としても、体力が弱ってきた。バブルがはじけて、ホンダを取り巻く環境から言っても、一度、見直す時期を迎えたということですね」
1992年9月、F1休止に当たっての社長メッセージが、ホンダの全事業所で放送された。第2期F1再開の原動力となり、レースにかける情熱では、ホンダの中では人後に落ちない川本信彦が、自らの肉声で、F1休止の決断を従業員に伝えたのである。
川本信彦はF1へのチャレンジの意義と次世代を担う人々への期待について、次のように語る。
「ホンダはF1屋じゃないんだよね。最高峰のものに、無手勝(むてかつ)流で挑む。猛烈に厳しいんだけども、それこそ岸壁の垂直登攀(とはん)みたいに、一歩誤れば落っこちるような状態で、それを成し遂げていくことに意義がある。『F1を私にどうしてもやらせてください』という人が出てくることが望ましいですね。技術や商品で引っ張っていく会社ですから、それらを生み出す人たちがそういうスピリットを持ち続けていく、自己研鑽(けんさん)を重ねるという伝統をつくることは、会社の百年の計のためにはすごく大事なことですよ」
カテゴリー: F1 / ホンダF1