F1の物議を醸す「ドライビングスタンダード・ガイドライン」問題の解決策

ノスタルジーは、もはや昔ほど魅力的ではない。だが、そもそも本当にそうだったのだろうか。
F1の「ドライビングスタンダード・ガイドライン」を巡る不満は、文書そのものが注釈や補足によって肥大化するにつれて、むしろ強まってきた。その一方で、かつてはレースコントロールが絶対的な権威を持ち、ドライバーたちがその判断を疑問視することなく受け入れていた“黄金時代”への郷愁も広がっている。
こうした批判を受け、昨季終盤のラウンドではドライバーとFIA(国際自動車連盟)による協議が行われた。2025年シーズンの主要な5件のインシデントが検証され、議論は「率直で、オープンかつ建設的」だったと総括されたが、ガイドラインに即時の変更は加えられなかった。また、長年ドライバー側が求めてきた常設のプロフェッショナル・スチュワードを誰が負担するのかという問題でも、意見は一致しなかった。
しかし、最大の対立点はさらに根本的なところにある。ドライバーたちは、ガイドラインがあまりにも複雑で抜け道が多く、そこに説明を重ねるほど実用性が損なわれていると感じている。
「走っているのはルールブックじゃない」
アレックス・アルボンは、カタールでの会合を前にこう語っていた。
「まるで、コーナーに入るときに“これはOK、あれはダメ”という分厚いルールブックを頭に入れて走っているみたいだ。それは僕の感覚ではレースじゃない」
「最初にルールがあって、その抜け穴を説明するための別のルールがあり、さらにその上に何層ものルールが重なっている。だからややこしくなる」
「僕たちはカートからF4、F3、F2とステップアップしてきた中で、どこが限界か、クリーンな走りと汚い走りの違いを理解している。自分なりの基準があって、それは理にかなっている」
「昔はルールが少なかった分、もっと流動的で、疑問符も少なかった。チャーリーが『これはこうだ』と言えば、みんな『分かった』で終わっていたと思う」
このチャーリー・ホワイティングへの言及は象徴的だ。アルボンのF1デビュー以前の時代であるというだけでなく、ホワイティングが築いた信頼と権威は、後任たちがいまだ確立できていないものだった。
彼が尊敬を集めた理由は明確だ。モータースポーツ界での長い経験、技術的知見、そしてかつてF1を事実上支配していたバーニー・エクレストンやマックス・モズレーの時代に築かれた強固な立場。そのすべてが彼の権威を支えていた。
ホワイティングは“猟師から森番へ”の典型だった。1980年代初頭、ブラバムでネルソン・ピケのチーフメカニックを務めていた頃は、ルールを「曲げる」ことが日常だった時代でもある。エクレストンがチームを売却した際、ホワイティングはFIAに迎え入れられ、そこからキャリアを積み重ねていった。
やがて彼はテクニカル・デリゲートにとどまらず、レースディレクターとしてスタート手順、安全対策、新サーキットの公認までを管轄する存在となった。メカニックとしての経験は、ドライバーの言い訳や駆け引きを見抜く力を与え、レースの物理的な理解も極めて深かった。
さらに重要だったのは、彼が表舞台に出ることを好まなかった点だ。インタビューはまれで、私見を語ることもほとんどなかった。この姿勢が、ドライバーとの間に独特の敬意を生んでいた。FIA会長に就任したジャン・トッドが、前任の人事を整理する中でもホワイティングを留任させた事実は、その存在感を物語っている。

チャーリー・ホワイティング時代は本当に理想だったのか
しかし、現在のF1に同じような“無条件で受け入れられる人物”はいるだろうか。カルン・チャンドック、アンソニー・デビッドソン、ジョリオン・パーマーといった元ドライバーの解説者が、カルロス・サインツに皮肉交じりで名前を挙げられたことはあったが、彼らがその役割を担えるかと言えば疑問が残る。
仮にそうした人物がいたとしても、常に正しい判断を下せるのか。今のようにファンが巨大化し、意見が分極化し、莫大な資金が動く時代に、ドライバーたちは本当に抗議せず受け入れるだろうか。現実的ではない。
加えて、過去を美化しすぎるのも危険だ。ホワイティングは在任最後の10年で、しばしば批判の対象にもなった。特に2016年には判定の一貫性を巡る不満が高まり、メキシコGPではセバスチャン・ベッテルが無線で「チャーリーにクソくらえと言ってやれ」と叫んだ場面もあった。
「昔は良かった」と人は言う。だが、それはいつの話なのか。
当時も今も、レースコントロールとスチュワードの判断は本質的に主観的であり、その精度は人の経験に依存していた。現在のガイドラインは、その期待値を文書化し、透明性を高めようとする試みだ。
現代のF1は、かつてないほど巨大なビジネスである。チームは数十億ドル規模の評価額を持ち、商業権保有者も株主や規制当局への説明責任を負っている。リバティ・メディアが権利を取得した後、エクレストン体制が速やかに終焉を迎えたことが象徴するように、密室での合意や曖昧な運営は許されなくなった。
レース結果を左右する判断が、正体不明の権力者によって下される時代ではない。ガイドライン自身も「これは規則ではなくガイドラインである」と明記し、「多くの事案には主観的判断が必要」であり、「レースは動的なプロセスである」と認めている。
煩雑であることは否定できないが、その目的は可能な限り透明な“交戦規則”を示すことにある。とはいえ、すべてのケースに当てはまる文言を作ることは不可能だ。
ホワイティングが理解していたように、ドライバーは常に限界を試す存在だ。そのため、かつては「コーナー頂点でのフロントアクスル位置」という単純な基準だったものが、後に多くの注釈を伴う形へと変化していった。
それでもグレーゾーンは残る。ブラジルでは、オスカー・ピアストリがターン1でコースのバンク変化に影響されてコントロールを失い、アンドレア・キミ・アントネッリと接触した結果、ペナルティを科された。他のドライバーはピアストリを擁護したが、F1は民主主義ではない。
協議では、ブレーキング中のロックアップをどう評価するかも議題となった。前方のマシンの挙動を避けるためにロックアップした場合、それでも過失と見なすべきなのか。この問いは、さらなる注釈を必要とし、「走らせる」原則から一層遠ざかる。
ドライバーが迅速で客観的な裁定を望むなら、「クリーン」や「ダーティ」といった共有定義に答えを求めても見つからない。それらは本質的に主観的だからだ。そして、過去に答えを求めても無意味である。時代は変わった。
常設のプロフェッショナル・スチュワードを導入し、しかも最近のF1経験を持つ人物で固めることは、解釈に一定の権威を与えるかもしれない。しかし、それこそが多くの人がチャーリー・ホワイティングの時代に抱くノスタルジーの核心でもある。
問題は、ルールやガイドラインそのものではない。それを運用する人々への、尊敬と信頼なのである。
カテゴリー: F1 / F1ドライバー
