F1新規参入チームの初陣ドライバー比較 ベテラン布陣が王道?

ベテランレーサーのバルテリ・ボッタスとセルジオ・ペレスは、来年F1に参入するキャデラックの先頭に立って戦うことになる。
ボッタスとペレスは豊富なF1の知識を持ち合わせており、2人で527戦のグランプリ、16勝、106回の表彰台を誇る。
しかし、新しいチームがデビューシーズンにそのような経験豊富なペアを選ぶとは限らない。我々は過去30年間にF1に参入した新チームを振り返り、どのようなラインナップを選んだのか、そしてその結果がどうなったのかを見ていく…。
■ 1997年 – スチュワート:バリチェロとマグヌッセン
1997年にはローラとスチュワート・グランプリという2つの新しいチームが参戦した。ローラは経験の浅いヴィンチェンツォ・ソスピリとリカルド・ロセットを起用したが、チームが遅すぎたためマシンを操るドライバーはほとんど意味をなさなかった。彼らはオーストラリアで予選落ちし、その後資金難の中で完全にグリッドから消え去った。
一方スチュワートは、最終的にタイトルを獲得するレッドブル・レーシングへと変貌することになるチームだった。ジャッキー・スチュワート卿と息子のポールがフォードの支援を受けてこのチームを立ち上げ、ルーベンス・バリチェロと元ハースのレーサー、ケビン・マグヌッセンの父親ヤン・マグヌッセンを起用した。
バリチェロはジョーダンで4年を戦い、ポールポジション1回と表彰台2回を記録していた。一方、事実上のルーキーだったマグヌッセンは1995年に代役で1戦だけ出走した経験を持つ高評価の若手だった。
スチュワートのSF01は信頼性に欠け、2台合計34戦のうち完走はわずか8回だった。しかしバリチェロはモナコの雨のレースでトラブルを避け、見事2位に入り、1997年唯一のポイントを獲得した。バリチェロは3年間在籍した後にフェラーリへ移籍したが、マグヌッセンは1998年の途中で放出され、マックス・フェルスタッペンの父ヨスに交代した。

■ 1999年 – BAR:ビルヌーブとゾンタ
BARは形式的には名門ティレルの参戦枠を取得したが、実質的には1999年の新チームであり、後にホンダ、そして伝説的なブラウンを経て現在のメルセデスとなるオペレーションをスタートさせた。
BARは1997年のワールドチャンピオン、ジャック・ビルヌーブを起用。カナダ人の彼はチーム代表のクレイグ・ポロックにマネジメントされていた。そしてもう1つのシートには、F3000とFIA GT選手権を連覇した新人リカルド・ゾンタを起用した。
BARはシーズン前に大きな期待と豪語を抱いていたが、1999年は悲惨な年となった。マシンは時折速さを見せたが、信頼性の欠如により大きなポイント獲得の望みは打ち砕かれ、ビルヌーブは開幕11戦で連続リタイアを喫した。
ゾンタが負傷した際にはミカ・サロが3戦に出走し、チーム最高位となる7位を記録したが、マシンのトラブルで完走すらできなかった。
ビルヌーブは2003年までチームに残り、その後ルノーやザウバー/BMWで短期間走った。一方ゾンタは2000年で放出され、以後はジョーダンやトヨタで7戦だけ代役出走したのみだった。

■ 2002年 – トヨタ:サロとマクニッシュ
トヨタは参戦に向けて数年間準備を行い、2001年には大規模なテストプログラムも実施。その結果、2人の経験豊富なドライバーを起用したが、F1の実戦経験を持つのは1人だけだった。
ミカ・サロは中団チームを渡り歩いたベテランで、6シーズンを戦い、1999年にはミハエル・シューマッハの代役としてフェラーリで2回の表彰台を獲得していた。もう1人のアラン・マクニッシュは、1980年代後半からF1マシンをテストしていたが、スポーツカーでの大成功を経てF1に戻り、トヨタとの縁が生まれた。
資金と準備を費やしたにもかかわらず、TF102はグリッド後方に沈むことが多かった。サロはオーストラリアとブラジルで6位に入り2ポイントを獲得したが、マクニッシュは無得点に終わった。さらに鈴鹿の予選で大クラッシュを喫し、それが彼のF1キャリアの終わりとなった。サロもそのレースを最後にチームを離れ、2003年には2人とも放出された。

■ 2006年 – スーパーアグリ:佐藤琢磨と井出有治
スーパーアグリはホンダの事実上のサテライトチームとして参入し、BARホンダのシートを失った表彰台経験者の佐藤琢磨の受け皿となった。
佐藤の起用は予想通りだったが、チームメイトは意外にも同じ日本人の31歳、井出有治だった。
マシンは2002年仕様のアロウズA23を改修したもので、大幅にペース不足。佐藤は健闘したが、ルーキーの井出はF1の世界に全く適応できず、イモラではクリスチャン・アルバースを派手に横転させてしまうなど惨憺たる結果となった。その後ルノーのテストドライバー、フランク・モンタニーに交代し、さらに後半戦は山本左近がシートを得た。
チームのパフォーマンスは改善し、佐藤は最終戦ブラジルで10位を獲得。しかし井出とモンタニーはいずれも短命に終わり、以後F1を走ることはなかった。

■ 2010年 – ロータス・レーシング:トゥルーリとコバライネン
2010年には3つの新チームが誕生し、それぞれ異なるアプローチでドライバーを選んだ。
マレーシアの実業家トニー・フェルナンデス率いるロータスは、元ジョーダン、ルノー、トヨタのエンジニアであるマイク・ガスコインが設計したマシンで参戦。起用したのは経験豊富な2人だった。
ヤルノ・トゥルーリはトヨタ撤退でシートを失い、200戦以上の経験、表彰台11回、1勝を持ってロータスに加入。もう1人はマクラーレンで2年を過ごし1勝3回の表彰台を挙げたヘイッキ・コバライネンだった。
コバライネンは2010年の「新チーム勢」の中で先頭を走ることが多かったが、トップ10争いには加われなかった。トゥルーリは2011年末で離脱し、コバライネンも2012年で退団。チームは迷走していった。

■ 2010年 – ヴァージン・レーシング:グロックとディ・グラッシ
同じく2010年に登場したヴァージン・レーシングは、名門マナー・モータースポーツが運営。ベテランと新人の組み合わせを選んだ。
トヨタ撤退でフリーになったティモ・グロック(表彰台3回経験)と、GP2の有力ドライバーだった新人ルーカス・ディ・グラッシを起用した。
VR-01はペースも信頼性も欠け、主にグロックが先頭を走ったがポイント獲得の可能性はゼロに近かった。グロックは3年間在籍したが、財政難から放出されF1キャリアを終えた。ディ・グラッシは1年限りだった。

■ 2010年 – ヒスパニア:セナとチャンドック
ヒスパニアは資金難と経営混乱の中で参戦を強行。
アイルトン・セナの甥であるブルーノ・セナは、チームがカンポス時代に契約したドライバーで、GP2準優勝とホンダのテスト経験を持っていたため、新オーナーによって契約は維持された。
カルン・チャンドックはシーズン開幕数週間前に契約し、初めてF110を走らせたのは開幕戦バーレーンの予選だった。
シーズン途中には元スーパーアグリとスパイカーの山本左近が加入し、当初はセナに代わって出走、後にチャンドックのシートを引き継いだ。また元レッドブルのクリスチャン・クリエンも終盤に2戦出走した。
しかし彼らはいずれも定着できず、2011年には誰も残らなかった。セナはその後ロータス名義のルノーで半シーズン走り、さらにウィリアムズでも走った。

■ 2016年 – ハース:グロージャンとグティエレス
ハースは参入時に経験を重視し、ロマン・グロージャンとエステバン・グティエレスを起用した。
グロージャンは2009年の短期参戦を経て2012年からロータスで4年間戦い、表彰台10回を獲得。チームが経済的に不安定になる中で契約がまとまった。
グティエレスは2013〜14年にザウバーで走り、2015年はフェラーリのテストドライバーを務めた後、グロージャンとともに参戦した。
デビュー戦でグロージャンは6位に入り、次戦では5位に改善。シーズンの全ポイントを獲得したのは彼だった。グティエレスはトラブルに悩まされノーポイントで、1年でF1キャリアを終えた。
グロージャンは5シーズン在籍し、2018年オーストリアGPでの4位が今なおハースのベストリザルトである。

こうして振り返ると、経験豊富なベテランを揃えたチーム(トヨタ、ロータス、ハース)は比較的安定した結果を残し、一方で新人を抜擢したチーム(BAR、スーパーアグリ、ヴァージン、ヒスパニア)は苦戦が目立ったことが分かる。キャデラックが採用したボッタス&ペレスの布陣は、過去の例から見ても「安全かつ即戦力の選択」といえるだろう。
カテゴリー: F1 / F1ドライバー