ルーベンス・バリチェロ、ブラウンGP誕生の電話は「人生最高の一日だった」
ルーベンス・バリチェロは、2009年に誕生したブラウンGPが自身のF1キャリア、そして人生そのものにおいて特別な存在だったと振り返っている。消滅寸前だったチームが存続することを告げられた、一本の電話――その瞬間を、彼は「人生最高の一日だった」と表現した。

元ホンダのチームがロス・ブラウンによって救われ、奇跡のシーズンへと動き出したあの日。

バリチェロにとってブラウンGPの誕生は、単なるチーム再編ではなく、走る場所を失うかもしれなかった不安から解放された、感情あふれる転機だった。

ブラウンGP誕生から17年が経った。2008年末、ホンダがF1撤退を決断したことで、チームは消滅の危機に瀕していたが、ロス・ブラウンはわずか1ポンドでチームを買収。数百人の雇用を守り、F1の舞台にチームを残す決断を下した。

その後すぐにメルセデスとのエンジン契約をまとめ、2009年シーズンに向けてグリッド屈指のパワーユニットを確保する。そしてドライバー体制も維持され、バリチェロは自身17年連続となるF1シーズンを、すでに3年間在籍していたチームで迎えることになった。ブラウンGPには、確かな基盤が築かれていた。

2009年のブラウンGPを支配的な存在へと押し上げたのが、革新的なディフューザーだった。ライバルチームがコピーするのに数か月を要したこの設計は、序盤戦で決定的なアドバンテージをもたらし、ブラウンはドライバーズ、コンストラクターズの両選手権で主導権を握った。

チームメイトのジェンソン・バトンは、BGP001に初めて乗ったテストの段階でタイトルを狙えると感じたという。一方、バリチェロはマシン開発面で大きな役割を果たし、バトンから「最高のチームメイト」と評される存在だった。2007年、2008年の苦しいシーズンを通じて積み重ねてきた経験とフィードバックが、2009年の成功に生かされた。

シーズン序盤、ブラウンGPは開幕7戦中6勝という圧倒的なスタートを切ったが、その勝利はいずれもバトンのものだった。バリチェロ自身の勝利はシーズン後半、バレンシアとモンツァで訪れることになる。

そんな成功の原点にあったのが、チーム存続を告げられたあの日の電話だった。バリチェロは2011年のブラジルGPで、当時を次のように振り返っている。

「電話が鳴って、相手はロスだった。彼は『準備はいいか?』と言った。すごく良い話にもなり得るし、すごく悪い話にもなり得る、とね」

「『金曜日に来られるか?』と聞かれて、僕は『いつでも行けるよ、ロス』と答えた」

「彼は『契約はある。来年も走ってほしい』と言ったんだ。家の中に入って、僕は泣いてしまった。その瞬間への感謝の気持ちでいっぱいだった。妻のシルヴァナに伝えた時、あれは人生最高の一日のひとつだった」

ルーベンス・バリチェロ F1 ブラウンGP

2009年の最終順位とキャリア最後の勝利
2009年シーズン序盤は目立った結果を残せなかったバリチェロだが、シーズンが進むにつれてペースを上げていき、逆にチームメイトの勢いがやや落ち始めた時期と重なった。

転機となったのはバレンシアでの勝利だった。その2戦後、フェラーリのティフォシに囲まれたモンツァで、彼は再びトップステップに立つ。ティフォシの前での勝利は、彼にとって特別な意味を持つものだった。

それが彼にとって最後のF1勝利であり、通算11勝目でもあった。その事実には、どこか運命的なものがあった。

最終的にチャンピオン争いには加われなかったものの、2009年はバリチェロがいかに才能あふれるドライバーだったかを改めて示すシーズンとなった。ドライバーズタイトルを獲得することなくキャリアを終えた中で、彼は「最も偉大な未戴冠ドライバー」のひとりとして、その名を刻んでいる。

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カテゴリー: F1 / ルーベンス・バリチェロ / ブラウンGP