ザナルディ 「ウィリアムズF1はたった4戦で私を信じなくなった」
アレックス・ザナルディは、F1キャリアで最後のシーズンとなった1999年のウィリアムズF1での時間を振り返り、チームはわずか4戦で彼を信じなくなったと語った。

1991年から1994年にかけてジョーダン、ミナルディ、ロータスでF1を戦ったアレックス・ザナルディは、アメリカにわたってCARTで2年連続でチャンピオンを獲得した後、1999年にウィリアムズでF1復帰した。

しかし、チームメイトのラルフ・シューマッハが11度の入賞を果たしたのとは対照的に、16戦中10戦でリタイア、最高位はモンツァでの7位とノーポイントでシーズンを終了。ウィリアムズと2年契約を結んでいたが、チームと合意の元で契約を解除した。

アレックス・ザナルディは、F1公式ポッドキャスト Beyond the Grid でウィリアムズ時代にトラブルについて詳しく語った。

「実際、私には非常に経験の浅いエンジニアをあてがわれていた。パトリック・ヘッドの頭の中は『彼らが道を見失ったら、我々はいつでも戻してもう1台のセットアップをコピーすることができる』という考えがあった」

「チャンピオンシップが始まる前でさえ、私はそれが適切なアプローチではないと考えていたが、パトリックと話すことをあえてせず、『この方法で状況がうまくいかなかったら、調整する必要がある。さもなければ、ただ多くの時間を無駄にし、お互いの信頼を失うことになるだろう』と考えていた」

「私はそれを入念に調べ、最終的に彼と話をしなければならない時間だと決断したのは4レース後のイモラだった。それらの論点を持って彼のところに話しに行ったが、彼らの答えは『うーん、私にはわからない』というものだった。その時点で私への信頼は完全に消えていたことに気づいた」

アレックス・ザナルディは、ウィリアムズF1におけるエンジニアリングの決定は、自分が意見を表明することへの信頼が欠けていたことに起因したと語る。

「そうなった時点で、もう自分が正しい男であると信じてもらうことはできないと思う。もし、彼が自分を雇うことに間違いを犯したと信じているならば、できることはあるし、試みたが、その時点からはもう私は非常に孤独だった。そして、私がその状況に至らしめたのは誰のせいでもない。敗北の主な原因は自分だ。それくらいシンプルなことだ」

「彼は実際にバルセロナでのテスト初日に来て、彼が私が状況の制御を取り戻すのを助けることができるかどうかを理解しようとを自分で操作した」

「私たちは同じ言語を話す準備ができていなかった。それくらいシンプルなことだった。私はコミュニケーションをとることができなかったし、その結果は歴史が物語っている」

アレクックス・ザナルディは、その厄介な1999年シーズンの唯一の失望は、チームオーナーであるフランク・ウィリアムズに成功をもたらすことができなかったことだと認める。

「これについて少し気分を害するものがあるとしたら? 個人的にフランク・ウィリアムズに成功を与えたかった。彼を幸せにしたいと思っていた。そらが最大の失望だ」

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カテゴリー: F1 / ウィリアムズ・レーシング