ホルヘ・ロレンソ、MotoGP引退を発表
レプソル・ホンダのホルヘ・ロレンソは11月14日(木)、MotoGP最終戦バレンシアGPの開催地サーキット・リカルド・トルモのプレスカンファレンスルームで報道陣向けに記者会見を開き、最高峰クラス203戦目、キャリア通算297戦目となるホームレース、バレンシアGPを最後に現役からの引退を発表した。
「この記者会見に来てくれて本当にありがとう。僕にとって大きな意味があり、とても幸せだ」とホルヘ・ロレンソは語った。
「ライダーとしてのキャリアには、重要な4日間があるといつも考えていた。それは初めてレースに出走した日、初めて優勝を挙げた日、初めてチャンピオンシップを獲得した日、そして引退する日。君たちが想像している通り、その日が来たことを告げるために僕はここにいる。これが僕のラストレースとなり、このレースが終わると、プロフェッショナルなレースから引退する。」
「3歳のときに全てが始まった。僕は約30年間、このスポーツに捧げてきた。僕と一緒に働いてきた人たちは、僕がどれだけ完璧主義者で、どれだけ努力を尽くしてきたのかを知っている。非常に高いレベルのモチベーションを自分自身に要求する。僕のキャリアの中で最も輝いたヤマハでの9年間は決して忘れられず、自分のスポーツに対する高いレベルの約束を維持したかったから変更が必要だと感じた。ドゥカティへの移籍は、必要と感じていた大きな後押しが得られ、結果は悪かったけど、決して諦めないという燃料のようなエクストラなモチベーションを活かして、ドゥカティのファンの前で、ムジェロでスペシャルなレースができた。ホンダとサインを交わしたときには、似たような感覚があり、全てのライダーの夢の1つであるホンダのファクトリーライダーになることを成し遂げた。」
「不運にも今シーズンは怪我が重要な役割を果たすことになってしまい、普通の体調で走ることができなかった。決してナチュラルに感じたことがないバイクを走らせることで、さらに難しいレースとなってしまった。忍耐を決して失わず、僕は闘い続けた。単純に時間の問題で、全てが正しい場所に収まると考えた。」
「しかし、光が見え始めたとき、モンメロのテストで悪い転倒をしてしまい、その後にアッセンであの醜い転倒に見舞われてしまった。グラベル上で横転が止まったあの瞬間、『ここで何をしているんだ?これは本当に価値があることか?僕は終わった』と最初に思った。数日後、人生とキャリアについてじっくりと考え、トライすることを決断した。直ぐに意思決定を下したくなかった。」
「あのクラッシュだということは真実。僕には乗り越える壁が高すぎた。試してみたとしても、その壁を登り続けるためのモチベーションと忍耐を見つけることができなかった。僕はこのスポーツが大好き。走ることが大好き。しかし、何よりも勝つことが大好きなんだ。何か大きなことのために、タイトルを獲得するために、少なくても勝利のために闘うことができない。キャリアのこの段階で、特に前進を続けるためのモチベーションを見つけることができなかった。ホンダとの目標は、少なくても短期間では実現的ではないことに気づいた。ホンダ、特に僕を信頼してくれ、機会を提供してくれたアルベルト・プーチには、本当に残念だと言わなければいけない。」
「ある日のモンメロで僕たちは会い、『間違ったライダーとサインを交わすという間違いをしないで、僕を信じてくれ。後悔しないでしょう』と彼に言ったことを思い出す。とても悲しいことに、僕は彼を失望させたと言わざるえない。常に例外的な手段で対応してくれた横山健男さん、桑田哲宏さん、野村欣滋さん、そしてチームのみんなにも失望させてしまったと言わなければいけないけど、これは僕とチームにとって、最善の決断だと感じる。ホルヘ・ロレンソとホンダは、数ポイントを獲得するために参戦することはできない!」
「美しく、成功のキャリアに話しを戻すと、常に言ってきたように、僕はとても幸運な男だ。インド人がNBAに挑戦するドキュメンタリー、『One in a Billion(ワン・イン・ア・ビリオン)』のようだと感じるときが時々ある。キャリアの中で、同世代の並外れた多くのライダーたちとレースをしてきた。その中には、僕よりも豊富な才能を持ったライダーたちが何人もいたけど、僕ほど成功したライダーは誰一人いなかった。彼らの多くが世界選手権にさえ参戦することができず、一般的な仕事に就かなければいけなかった。キャリアを始めたときに想像していた成功を越えた。そのことをとても幸運だったと感じる。確かに僕はいつも懸命に働いてきたけど、キャリアを通じて一緒に働いてきた多くの人たちの助けがなければ、正しい時期に正しい場所にいることはできず、このような成功を収めることは不可能だった。」
「だからこそ、全ての人たちに心から感謝したい。このチャンピオンシップをこれほど偉大にしてくれたカルメロ・エスペレータとドルナスポーツに感謝したい。所属したデルビ、アプリリア、ヤマハ、ドゥカティ、ホンダ、特にジャンピエロ・サッキ、ジジ・ダリーニャ、リン・ジャービス、アルベルト・プーチに感謝したい。この世界に連れてきてくれた母親、このスポーツの情熱を見せてくれた父親、ここ数年間僕のために犠牲を払ってくれた全ての人たちにも感謝したい。無条件の愛を与えてくれたファンとファンクラブのみんな。パーソナルチームとして一緒に働いてくれた全ての人たち。いつも正直に忠実に対応してくれたアルベルト・バレラ。彼らみんなに心から感謝したい。」
ホルヘ・ロレンソのプロフィール
1987年5月4日生まれ。出身地は、スペインの地中海に浮かぶマジョルカ島のマルパ・デ・マジョルカ。3歳の時からミニクロスのレースに参加すると、9歳でミニクロス、トライアル、ミニバイク、モトクロスのマジョルカ選手権を独占。11歳で2年目のコパ・アプリリア(50cc)を制した実績が認められ、スペイン連盟から特別許可を得て、若干13歳で国内選手権125ccクラスへの参戦を開始。
2002年5月4日。当時の競技規則に従い、出場最低年齢となる15歳の誕生日を待って、デルビのファクトリーチームから第3戦スペインGPの2日目にデビュー。翌日の決勝レースで、2000年最終戦オーストラリアGPでステファノ・ビアンコが樹立した史上最年少記録を更新(15歳と2日)。
同年の第6戦カタルーニャGPで、史上最年少ポイント獲得記録を更新(15歳と42日)。2003年の第12戦リオGPでは初優勝を飾り、史上2番目の最年少優勝者となり、このとき、ケーシー・ストーナーとダニ・ペドロサをアウト側から抜いたことから、そのイメージを基にロゴを作成。
125ccクラスで総合4位に進出した翌年の2005年に、フォルトゥナ・ホンダから250ccクラスにステップ。総合5位を獲得すると、2006年にはアプリリアのエースライダーに指名され、中量級の最多記録に並ぶ年間10度のポールポジションを獲得。7度のポール・トゥ・ウインを含む8勝を挙げ、初タイトルを獲得し、史上2番目の最年少チャンピオン(19歳と178日)に輝いた。
同チームからタイトル防衛に挑んだ2007年は、9度のポール・トゥ・ウインを含め12度の表彰台を獲得。史上2番目の最年少2連覇に成功。
参戦7年目の2008年、ヤマハのファクトリーチーム、フィアット・ヤマハから最高峰クラスに初参戦。デビュー戦でポールポジションから表彰台を獲得。第3戦ポルトガルGPで、新人としては史上初となる3戦連続のポールポジション、史上5番目となる最年少優勝、史上2番目となる最年少3クラス優勝、史上最年少の3連続表彰台獲得の記録(20歳と345日)を更新。
第6戦イタリアGPで史上最年少となる100戦目を達成(21歳と28日)するなど、開幕から次々に記録を更新して行くが、右足首を骨折した第4戦中国GPのハードクラッシュから転倒が増え、第7戦カタルーニャGPで頭部を強打してドクターストップ。第11戦アメリカGPでは両足を骨折。
総合4位と新人王を獲得した後、ゼッケンをデビューから使用していた48から99に変更。1年目の経験を活かした走りで4勝を含む12度の表彰台を獲得し、シーズン終盤までタイトル争いを展開して総合2位を獲得。
3年目の2010年は、開幕から安定した速さと強さで優勝と表彰台を次々に獲得し、第15戦マレーシアGPで史上6番目となる最年少チャンピオンに輝く。さらに、最終戦バレンシアGPの優勝で年間最多獲得ポイント(383ポイント)、年間最多タイとなる16度の表彰台、年間最多タイとなる18戦連続のポイント連取を達成。
ヤマハ参戦50周年記念となるファクトリーチームのエースとして、チャンピオンナンバーのゼッケン1に変更して挑んだ2011年は、安定して表彰台を連取し、総合2位を獲得。
ゼッケンを99に戻した2012年は、全18戦中6勝を含む16戦で表彰台を獲得。年間最多となる16度目のトップ2入りを達成し、最高峰クラスで2度目のタイトル獲得に成功。
2013年は、後半戦に5勝を含む9戦連続の表彰台を獲得し、最終戦バレンシアGPまでタイトル獲得を展開したが、第7戦TTアッセンの左鎖骨を骨折、第8戦ドイツGPの転倒による欠場が影響して総合2位。2014年は、フラッグ・トゥ・フラッグとなった第14戦アラゴンGPまで優勝が挙げられず、総合3位に後退。
2015年は、第4戦スペインGPから自己最多となる4連勝を達成すると、最終戦バレンシアGPで年間7勝目を挙げ、7ポイント差の逆転に成功。3年振り3度目、史上12人目となる通算5度目のタイトルを獲得。
2016年は、ウェットコンディションとキャリア最多を記録した11度の転倒(3度の転倒リタイア)が影響し、総合3位に後退。
2017年は、9年間所属したヤマハ発動機から離れ、ドゥカティのファクトリーチーム、ドゥカティ・チームから参戦。3度の表彰台を獲得したが、最高峰クラスで初めて未勝利のシーズンとなり、総合7位。2年目はドゥカティのホームレースとなった第6戦イタリアGPで優勝を挙げ、3勝を含む4度の表彰台を獲得したが、第14戦アラゴンGPで右足、第15戦タイGPで左手首を負傷したことが影響して総合9位。
フル参戦18年目、最高峰クラス12年目の2019年は、2018年6月6日に2年契約を締結したHRCのファクトリーチーム、レプソル・ホンダから参戦。
右足と左手首が万全に回復していない状態で11月に2度のテストに参加。ドゥカティからホンダへの乗り換えを始めたが、年明け最初の走行となる2月のオフィシャルテストの前に左手首を骨折。相次ぐ負傷から完治していない状態で実戦を通じながらホンダへの乗り換えに取り組んだが、第7戦カタルーニャGP後のオフィシャルテストでハードクラッシュ。第8戦TTアッセンの転倒で胸椎を2か所骨折したことから、4戦に欠場。第12戦イギリスGPで復帰を果たしたが、最終戦バレンシアGPを前に現役からの引退を決断した。
カテゴリー: F1 / MotoGP
「この記者会見に来てくれて本当にありがとう。僕にとって大きな意味があり、とても幸せだ」とホルヘ・ロレンソは語った。
「ライダーとしてのキャリアには、重要な4日間があるといつも考えていた。それは初めてレースに出走した日、初めて優勝を挙げた日、初めてチャンピオンシップを獲得した日、そして引退する日。君たちが想像している通り、その日が来たことを告げるために僕はここにいる。これが僕のラストレースとなり、このレースが終わると、プロフェッショナルなレースから引退する。」
「3歳のときに全てが始まった。僕は約30年間、このスポーツに捧げてきた。僕と一緒に働いてきた人たちは、僕がどれだけ完璧主義者で、どれだけ努力を尽くしてきたのかを知っている。非常に高いレベルのモチベーションを自分自身に要求する。僕のキャリアの中で最も輝いたヤマハでの9年間は決して忘れられず、自分のスポーツに対する高いレベルの約束を維持したかったから変更が必要だと感じた。ドゥカティへの移籍は、必要と感じていた大きな後押しが得られ、結果は悪かったけど、決して諦めないという燃料のようなエクストラなモチベーションを活かして、ドゥカティのファンの前で、ムジェロでスペシャルなレースができた。ホンダとサインを交わしたときには、似たような感覚があり、全てのライダーの夢の1つであるホンダのファクトリーライダーになることを成し遂げた。」
「不運にも今シーズンは怪我が重要な役割を果たすことになってしまい、普通の体調で走ることができなかった。決してナチュラルに感じたことがないバイクを走らせることで、さらに難しいレースとなってしまった。忍耐を決して失わず、僕は闘い続けた。単純に時間の問題で、全てが正しい場所に収まると考えた。」
「しかし、光が見え始めたとき、モンメロのテストで悪い転倒をしてしまい、その後にアッセンであの醜い転倒に見舞われてしまった。グラベル上で横転が止まったあの瞬間、『ここで何をしているんだ?これは本当に価値があることか?僕は終わった』と最初に思った。数日後、人生とキャリアについてじっくりと考え、トライすることを決断した。直ぐに意思決定を下したくなかった。」
「あのクラッシュだということは真実。僕には乗り越える壁が高すぎた。試してみたとしても、その壁を登り続けるためのモチベーションと忍耐を見つけることができなかった。僕はこのスポーツが大好き。走ることが大好き。しかし、何よりも勝つことが大好きなんだ。何か大きなことのために、タイトルを獲得するために、少なくても勝利のために闘うことができない。キャリアのこの段階で、特に前進を続けるためのモチベーションを見つけることができなかった。ホンダとの目標は、少なくても短期間では実現的ではないことに気づいた。ホンダ、特に僕を信頼してくれ、機会を提供してくれたアルベルト・プーチには、本当に残念だと言わなければいけない。」
「ある日のモンメロで僕たちは会い、『間違ったライダーとサインを交わすという間違いをしないで、僕を信じてくれ。後悔しないでしょう』と彼に言ったことを思い出す。とても悲しいことに、僕は彼を失望させたと言わざるえない。常に例外的な手段で対応してくれた横山健男さん、桑田哲宏さん、野村欣滋さん、そしてチームのみんなにも失望させてしまったと言わなければいけないけど、これは僕とチームにとって、最善の決断だと感じる。ホルヘ・ロレンソとホンダは、数ポイントを獲得するために参戦することはできない!」
「美しく、成功のキャリアに話しを戻すと、常に言ってきたように、僕はとても幸運な男だ。インド人がNBAに挑戦するドキュメンタリー、『One in a Billion(ワン・イン・ア・ビリオン)』のようだと感じるときが時々ある。キャリアの中で、同世代の並外れた多くのライダーたちとレースをしてきた。その中には、僕よりも豊富な才能を持ったライダーたちが何人もいたけど、僕ほど成功したライダーは誰一人いなかった。彼らの多くが世界選手権にさえ参戦することができず、一般的な仕事に就かなければいけなかった。キャリアを始めたときに想像していた成功を越えた。そのことをとても幸運だったと感じる。確かに僕はいつも懸命に働いてきたけど、キャリアを通じて一緒に働いてきた多くの人たちの助けがなければ、正しい時期に正しい場所にいることはできず、このような成功を収めることは不可能だった。」
「だからこそ、全ての人たちに心から感謝したい。このチャンピオンシップをこれほど偉大にしてくれたカルメロ・エスペレータとドルナスポーツに感謝したい。所属したデルビ、アプリリア、ヤマハ、ドゥカティ、ホンダ、特にジャンピエロ・サッキ、ジジ・ダリーニャ、リン・ジャービス、アルベルト・プーチに感謝したい。この世界に連れてきてくれた母親、このスポーツの情熱を見せてくれた父親、ここ数年間僕のために犠牲を払ってくれた全ての人たちにも感謝したい。無条件の愛を与えてくれたファンとファンクラブのみんな。パーソナルチームとして一緒に働いてくれた全ての人たち。いつも正直に忠実に対応してくれたアルベルト・バレラ。彼らみんなに心から感謝したい。」
ホルヘ・ロレンソのプロフィール
1987年5月4日生まれ。出身地は、スペインの地中海に浮かぶマジョルカ島のマルパ・デ・マジョルカ。3歳の時からミニクロスのレースに参加すると、9歳でミニクロス、トライアル、ミニバイク、モトクロスのマジョルカ選手権を独占。11歳で2年目のコパ・アプリリア(50cc)を制した実績が認められ、スペイン連盟から特別許可を得て、若干13歳で国内選手権125ccクラスへの参戦を開始。
2002年5月4日。当時の競技規則に従い、出場最低年齢となる15歳の誕生日を待って、デルビのファクトリーチームから第3戦スペインGPの2日目にデビュー。翌日の決勝レースで、2000年最終戦オーストラリアGPでステファノ・ビアンコが樹立した史上最年少記録を更新(15歳と2日)。
同年の第6戦カタルーニャGPで、史上最年少ポイント獲得記録を更新(15歳と42日)。2003年の第12戦リオGPでは初優勝を飾り、史上2番目の最年少優勝者となり、このとき、ケーシー・ストーナーとダニ・ペドロサをアウト側から抜いたことから、そのイメージを基にロゴを作成。
125ccクラスで総合4位に進出した翌年の2005年に、フォルトゥナ・ホンダから250ccクラスにステップ。総合5位を獲得すると、2006年にはアプリリアのエースライダーに指名され、中量級の最多記録に並ぶ年間10度のポールポジションを獲得。7度のポール・トゥ・ウインを含む8勝を挙げ、初タイトルを獲得し、史上2番目の最年少チャンピオン(19歳と178日)に輝いた。
同チームからタイトル防衛に挑んだ2007年は、9度のポール・トゥ・ウインを含め12度の表彰台を獲得。史上2番目の最年少2連覇に成功。
参戦7年目の2008年、ヤマハのファクトリーチーム、フィアット・ヤマハから最高峰クラスに初参戦。デビュー戦でポールポジションから表彰台を獲得。第3戦ポルトガルGPで、新人としては史上初となる3戦連続のポールポジション、史上5番目となる最年少優勝、史上2番目となる最年少3クラス優勝、史上最年少の3連続表彰台獲得の記録(20歳と345日)を更新。
第6戦イタリアGPで史上最年少となる100戦目を達成(21歳と28日)するなど、開幕から次々に記録を更新して行くが、右足首を骨折した第4戦中国GPのハードクラッシュから転倒が増え、第7戦カタルーニャGPで頭部を強打してドクターストップ。第11戦アメリカGPでは両足を骨折。
総合4位と新人王を獲得した後、ゼッケンをデビューから使用していた48から99に変更。1年目の経験を活かした走りで4勝を含む12度の表彰台を獲得し、シーズン終盤までタイトル争いを展開して総合2位を獲得。
3年目の2010年は、開幕から安定した速さと強さで優勝と表彰台を次々に獲得し、第15戦マレーシアGPで史上6番目となる最年少チャンピオンに輝く。さらに、最終戦バレンシアGPの優勝で年間最多獲得ポイント(383ポイント)、年間最多タイとなる16度の表彰台、年間最多タイとなる18戦連続のポイント連取を達成。
ヤマハ参戦50周年記念となるファクトリーチームのエースとして、チャンピオンナンバーのゼッケン1に変更して挑んだ2011年は、安定して表彰台を連取し、総合2位を獲得。
ゼッケンを99に戻した2012年は、全18戦中6勝を含む16戦で表彰台を獲得。年間最多となる16度目のトップ2入りを達成し、最高峰クラスで2度目のタイトル獲得に成功。
2013年は、後半戦に5勝を含む9戦連続の表彰台を獲得し、最終戦バレンシアGPまでタイトル獲得を展開したが、第7戦TTアッセンの左鎖骨を骨折、第8戦ドイツGPの転倒による欠場が影響して総合2位。2014年は、フラッグ・トゥ・フラッグとなった第14戦アラゴンGPまで優勝が挙げられず、総合3位に後退。
2015年は、第4戦スペインGPから自己最多となる4連勝を達成すると、最終戦バレンシアGPで年間7勝目を挙げ、7ポイント差の逆転に成功。3年振り3度目、史上12人目となる通算5度目のタイトルを獲得。
2016年は、ウェットコンディションとキャリア最多を記録した11度の転倒(3度の転倒リタイア)が影響し、総合3位に後退。
2017年は、9年間所属したヤマハ発動機から離れ、ドゥカティのファクトリーチーム、ドゥカティ・チームから参戦。3度の表彰台を獲得したが、最高峰クラスで初めて未勝利のシーズンとなり、総合7位。2年目はドゥカティのホームレースとなった第6戦イタリアGPで優勝を挙げ、3勝を含む4度の表彰台を獲得したが、第14戦アラゴンGPで右足、第15戦タイGPで左手首を負傷したことが影響して総合9位。
フル参戦18年目、最高峰クラス12年目の2019年は、2018年6月6日に2年契約を締結したHRCのファクトリーチーム、レプソル・ホンダから参戦。
右足と左手首が万全に回復していない状態で11月に2度のテストに参加。ドゥカティからホンダへの乗り換えを始めたが、年明け最初の走行となる2月のオフィシャルテストの前に左手首を骨折。相次ぐ負傷から完治していない状態で実戦を通じながらホンダへの乗り換えに取り組んだが、第7戦カタルーニャGP後のオフィシャルテストでハードクラッシュ。第8戦TTアッセンの転倒で胸椎を2か所骨折したことから、4戦に欠場。第12戦イギリスGPで復帰を果たしたが、最終戦バレンシアGPを前に現役からの引退を決断した。
カテゴリー: F1 / MotoGP