レイホール 「ホンダがシボレーでの出場を許可してくれたのは驚き」
ステファン・ウィルソンの不運な負傷により、インディアナポリス500への挑戦が復活したグラハム・レイホールは、ドレイヤー&ラインボルドとの契約が成立したことを「信じられない」と語った。

火曜日にインディアナポリス・モータースピードウェイで行われた、ドレイヤー&ラインボルドが運営するキュージック・モータースポーツの24号車をドライブするという発表の中で、レイホールはチームオーナーのデニス・ラインボルド、父ボビー(レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングを運営)、エンジンサプライヤーのホンダとシボレーに賛辞を送った。

レイホールは長年ホンダのパワーでレースをしてきたが、エンジンサプライヤーとスポンサーの双方と合意に達したため、シボレーを搭載したドレイヤー&ラインボルドに乗り換えることになった。

彼は、日曜日のラストチャンス予選で、自分のレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングのチームメイトであるジャック・ハーヴェイにバンプされ、インディ500の出場権を逃していた。

「デニスから電話があったとき、僕は『あなたの時間を無駄にしたくないので、父と話すのが一番だろう』と言った」とレイホールJr.は語った。

「とてもありがたかったが、ハードルが非常に高いことは分かっていた。これは僕が『イエス』と言えるような簡単なことではなかった」

「昨日の夜10時半に一緒に座って、『こんなことが実際に起こるなんて信じられない』と心の中で思っていた。ホンダもシボレーもこんなことを許すなんてね」

「課題は僕よりもはるかに大きいことはわかっていた。契約上、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングとホンダ、そしてすべてのパートナーとの間に何があるかわからないので、身を引かなければならないことは分かっていた」

「ラインボルドがハイクラスな人物であることは知っているし、彼と父がすぐに物事を解決したことも知っている。驚いているけど、昨夜遅く、これを実現できると知ったときは、本当にに興奮した」

レイホールは、2008年にニューマン/ハース・レーシングで亡き弟ジャスティンとパートナーを組んでいたため、月曜の事故で脊椎骨折を負ったウィルソンの代役としてのオファーを「引き受けざるを得ない」と感じたと語った。ドレイヤー&ラインボルドからは、2010年のアイオワで1度だけ出走したことがある。

「もし、それが違うものであったなら、自分がどの程度コンプレックスを抱いていたかわからない」とレイホールは決断について語った。

「特にこの2~3日の後では『やるべきか、やらないべきか、それは適切なのか』と考えるのはほろ苦い瞬間だった。でも、この状況ではそれが正しいと感じた」

「ホンダとシボレー、そしてスポンサーの皆様にはどれだけ感謝してもしきれないけど、僕をここに来るために解放してくれた彼らにとっては大変な一週間だった。本当に感謝している」

ホンダとシボレーの両チーム間の交渉がどのようなものだったのか説明を求められたラインボルドは 「シボレーのメンバーとは彼らの感覚をつかむために私が話し合い、ホンダの話し合いはボビーが引き継いだ」と語った。

「私たちはある意味で、このゴールを目指して、それが可能かどうかを探るために、別々の道を歩んでいった。そして、いくつかのハードルを越えた後、状況は良くなり始めた」

「私たちはチェックリストで、この目標が可能になるために起こらなければならないものを消し続けた。たくさんのことが関係していて、昨日から昨夜にかけて、それらのことを検討するのに多くの時間を費やした」

このエントリーをはてなブックマークに追加

カテゴリー: F1 / インディカー