ホンダの第3期F1活動を振り返る
ホンダは、9年間に渡る第3期F1活動の終了を発表した。

日本車として初めてF1の世界へ挑戦した第1期(1964年〜1968年)、エンジンサプライヤーとして一時代を築いた第2期(1983年〜1992年)に比べ、ホンダのF1第3期は、9年間でわずか1勝という結果で幕を閉じた。

1998年の参戦宣言からのホンダF1の活動を歴代F1マシンと共に振り返る。

RA009 (1998年〜1999年)

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1998年、当時のホンダ社長だった川本信彦が「フルワークスによるF1参戦」を発表。元ティレルのスタッフとハーベイ・ポスルスウェイト博士が設計したダラーラ製シャシーに無限ホンダV10を搭載したプロトタイプカーが、イタリア・バイラーノでシェイクダウンされた。真っ白にカラーリングされ、RA099と名付けられたプロトタイプカーは、年明けの合同テストで好タイムをマーク。その後も各地で精力的にテストを繰り返していた。しかし、4月のテスト中にポスルスウェイトが急死。計画は大きな軌道修正を余儀なくされ、ホンダはオールホンダとしての参戦をあきらめ、新興チームB・A・Rとのジョイントプロジェクト“ブリティッシュ・アメリカン・レーシング・ホンダ”でエンジンサプライヤーとしての参戦することを発表した。

BAR002 (2000年)

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ジャック・ビルヌーブ、リカルド・ゾンタを擁したBARホンダ。2000年マシンであるBAR002は、開幕戦でジャック・ビルヌーブが4位入賞果たすなど幸先の良いスタートを切る。年間で20ポイントを獲得し、11チーム中5位でシーズンを終えた。

BAR003 (2001年)

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F1復帰2年目となった2001年は、ブリティッシュ・アメリカン・レーシング(BAR)に加え、ジョーダン・グランプリにもエンジンを供給。リカルド・ゾンタに替えオリビエ・パニスを起用。第5戦スペインGPでは、ジャック・ビルヌーブが、ホンダF1復帰後初となる3位表彰台を獲得。ビルヌーブは第12戦ドイツGPでも3位表彰台を獲得するが、年間の獲得ポイントは前年を下回り17ポイント、コンストラクターズランキングは6位に後退した。

BAR004 (2002年)

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2002年はさらに低迷が進み、ホンダ RE002Eを搭載したBAR003は年間でわずか7ポイントしか獲得できず、コンストラクターズランキングでは8位に転落。この年、佐藤琢磨がジョーダンよりF1デビュー。しかし、第13戦ハンガリーGPでジョーダンへのエンジン供給打ち切りを発表。ジョーダンを出た佐藤琢磨は、BARとテストドライバー契約を結ぶ。

BAR005 (2003年)

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再びBARへエンジン供給を一本化した2003年はオリビエ・パニスに替えてジェンソン・バトンをレギュラードライバーとして獲得。中本修平がHRDエンジニアリングディレクターに就任。テクニカル・ディレクターのジェフ・ウィリスによって開発されたBAR005は、26ポイントをあげランキング5位を獲得。最終戦日本GPの開催直前には翌年からヴィルヌーヴに代わり佐藤琢磨をレギュラードライバーとして起用することを発表。これを受け、ビルヌーヴは急遽日本GP参戦を取りやめ佐藤琢磨が参戦。見事入賞を果たした。

BAR005 コンセプトカー (2003年〜2004年)

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ミシュランタイヤへのスイッチ、2004年のレギュレーション変更に合わせ、BAR005のシャシーにBAR006仕様のリアエンドを搭載したハイブリッドカー。“カラス”と呼ばれた真っ黒なカラーリングのコンセプトカーはテストで好タイムを連発した。

BAR006 (2004年)

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ジェンソン・バトンと佐藤琢磨のドライバーラインナップで参戦した2004年。フレキシブルウイングやフロントデフなど技術的なチャンレンジがみられたBAR006でジェンソン・バトンは第2戦マレーシアGPから3戦連続で表彰台を獲得。第4戦サンマリノGPでは、第3期初となるポール・ポジションを獲得した。佐藤琢磨もアメリカGPで日本人として14年ぶりの3位表彰台を獲得。BAR006は、名門チームの不調もありコンストラクターズ2位を獲得。大躍進のシーズンとなった。

BAR007 (2005年)

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チームを去ったデビッド・リチャーズの後継としてプロドライブのニック・フライがチームCEOに就任。BAR007は、レギュレーション変更への対応に苦戦し、開幕戦のオーストラリアGPから第3戦バーレーンGPまでは、1ポイントすら獲得できない状況に陥る。第4戦サンマリノGPではジェンソン・バトンが3位、佐藤琢磨が5位でフィニッシュしたが、レース終了後の車検で重量規定違反を問われ、サンマリノGPはレース失格となり、獲得した10ポイントを剥奪されたばかりでなく、第5戦スペインGP、第6戦モナコGPの出場停止処分が下された。

RA106 (2006年)

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B・A・Rの株式を100%取得し、38年ぶりにホンダワークスチームでの参戦となった2006年。中本修平がシニア・テクニカルディレクターに就任し、栃木研究所とHRF1との命令系統が統一された。ジェンソン・バトンとルーベンス・バリチェロのドライバーラインナップで参戦した2006年は、第13戦ハンガリーGPで、ジェンソン・バトンが第3期初優勝。ワークスホンダとしては39年ぶりの勝利となった。86ポイントを獲得し、4位でシーズンを終えた。

RA107 (2007年)

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RA107ではBATの撤退により、カラーリングを一新。“アースドリーム・プロフェクト”とコンセプトのもと“地球”を描いたアースカラーを採用。新しい風洞施設を活用し、RA106に根本的な改良を加えた。斬新なデザインを採用したRA107だが、ブリヂストンタイヤへの対応と空力に失敗し低迷。Bチームであるスーパーアグリにすら16戦目まで後塵を拝し、11チーム中8位(マクラーレンのポイント剥奪のため実質9位)でシーズンを終える。

RA108 (2008年)

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ロス・ブラウンを新代表に迎えた2008年。RA108の失敗により、エアロチームを再編成。しかし、結果的に開発のスタートが遅れ、再び厳しいシーズンとなる。第9戦イギリスGPではルーベンス・バリチェロが1年ぶりに表彰台を獲得したが、14ポイント獲得で10チーム中9位でシーズンを終える。

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カテゴリー: F1 / ホンダF1 / F1マシン