ロス・ブラウンが設計に関わった名車5選 / F1特集
F1の新マネージングディレクターに就任したブラウンのキャリアをゆかりの名車と共に振り返る。

F1最高権力者の座に長年に渡り君臨してきたバーニー・エクレストンの勇退、そして新設された三頭体制マネージメントの一角を担うモータースポーツ担当マネージングディレクターにロス・ブラウンが就任するというニュースは世界中に驚きをもって迎えられた。

かつてF1界に数々のイノベーションをもたらし、不世出のチームリーダーとして一時代を築いたロス・ブラウンは、現在はF1というスポーツ全体の舵取りを担う立場を担っている。

1976年、当時ロニー・ピーターソンが在籍していたマーチへ入社し、新人の切削機械オペレーターとしてモータースポーツの世界に足を踏み入れたブラウンは、一介のメカニックから上級エンジニア、果てはチームプリンシパルへとヒエラルキーを駆け上ってきた立志伝中の人物だ。1990年代になると、彼はまずベネトン(後のRenaultF1チーム)でテクニカルディレクターを務め、その後フェラーリでも同職を務めると、ミハエル・シューマッハと共にF1界におけるあらゆる成功を手にした。ブラウンはシューマッハの通算7回のドライバーズチャンピオン獲得全てに影の立役者として関わった。また、その後はホンダF1チームとその後継となるブラウンGP、そしてメルセデスでチームプリンシパルを歴任した。

デザイナー、戦術家、そしてチームリーダーとして類い稀なる慧眼を発揮してきたブラウン。ブラウンのF1キャリアの新章の始まりを祝し、これまで彼が設計に関わってきた5台の名車群を振り返ってみよう。

1. ハース・ロ-ラ THL1/THL2
ハース・ロ-ラ THL1/THL2
短命に終わったハース(2016年シーズンから参戦しているハースF1チームとは無関係)が1985・1986年シーズンで残した成績には全く見るべきところがないが、ハース・ロ-ラ THL1とTHL2は、ロス・ブラウンとエイドリアン・ニューウェイという近代F1史における2人のカリスマが若き日に共同で設計に取り組んだ稀有な出自を持つマシンだ(ブラウンとニューウェイは共に空力開発担当で、チーフデザイナーは後年マクラーレン MP4/4の設計を手がけるニール・オートレイ)。ターボ全盛期の当時のF1にあって、ハースは終始エンジンの非力さと信頼性の低さに悩まされた(参戦初年度はハート製、2年目はフォード製)が、エンジン周りの諸問題さえなければそれなりに高い競争力を発揮できたはずだと評価する者は多い。当時ハース・ロ-ラをドライブしたパトリック・タンベイは「エンジンの非力さはともかく、シャシーは素晴らしい出来だった。チームは様々な難題に直面したが、運営は見事なものだったよ。今にして思えばドリームチームだね!」と回想する。

2. ジャガー XJR-14
ジャガー XJR-14
1980年代後半にハースやアロウズといった中堅以下のF1チームで苦渋を味わったブラウンは、心機一転ジャガーに移籍し、1991年シーズンの世界スポーツカー選手権(WSC)のために奇抜さと美しさを併せ持つ名車XJR-14のデザインを主導した。当時F1で実戦使用されていたものと同一のフォード コスワース HBエンジンを搭載し「スポーツカーの皮を被ったF1」もしくは「2シーターのF1」とも呼ばれたXJR-14は、ブラウンのキャリアにおいても傑出した存在感を放つ名車と言えるだろう。当時XJR-14をドライブしてジャガーのWSCチームタイトル獲得に貢献したマーティン・ブランドル(現在はSky Sports F1プレゼンター)は「人車一体とは、あのマシンのことを言うのだろうね」と回想する。「XJR-14は地に張り付くように走り、ドライバーは常に自信を持ってドライブすることができた。全ての操作があるべき形でマシンの挙動に反映され、ドライブが非常に楽しいマシンだったよ。私はあのマシンで常に自分の限界にチャレンジしていたものさ。なぜなら、有り得ないようなスピードでコーナリングしても、まだマシンに余裕が感じられたからね。『あんな速度でも挙動が乱れないなんて信じられない。よし、次はもっと高い速度でコーナリングしてみせるぞ… 』と自分を奮い立たせたものさ。ほぼ毎ラップが自分自身とマシンへの挑戦だったのさ」

3. ベネトン B195
ベネトン B195
もしこのリストにベネトン B194を選出していたら、英国のモータースポーツファンたちは我々を許してはくれなかっただろう。当時英国の期待を一身に背負っていたデイモン・ヒルを1994年シーズン最終戦オーストラリアGPで無情に(文字通り)弾き出し、ミハエル・シューマッハに初戴冠をもたらしたB194はヒルから1996年シーズンのF1ドライバーズチャンピオンタイトルを奪い去った憎きマシンだ。B194は当時違法とされていたトラクション・コントロール・システムを、1994年シーズンを通して使用していたのではないかという疑いの声も依然として大きく、アイルトン・セナの死と政治的疑惑に大きく揺れ動いた1994年シーズンのF1を象徴している1台だ。そのような議論を避けるため…ではないが、このリストではブラウンとロリー・バーンが設計したベネトン B195を挙げておこう。これは前年に引き続きシューマッハがドライブしてチャンピオンシップを席巻し、またジョニー・ハーバートが母国イギリスGPをはじめとした2勝を挙げたマシンだ。当時のライバルだったウィリアムズと同一仕様のRenault V10エンジンを搭載したB195は、1995年シーズン17戦中11勝を記録し、シューマッハに2年連続のドライバーズチャンピオンをもたらした。

4. フェラーリ F2002
フェラーリ F2002
ミハエル・シューマッハを追う形で1997年シーズンにフェラーリへ移籍したブラウンはマラネロの技術部門再建に大きな貢献を果たし、2000年シーズンにはシューマッハにフェラーリ移籍後初・そしてフェラーリにとっては1979年シーズン以来となるドライバーズチャンピオンをもたらした。そして、シューマッハ&ブラウンの盤石コンビが最盛期を迎えようとしていた2002年シーズン、ブラウンはベネトン時代からの盟友ロリー・バーンと共にフェラーリ史において最も大きな成功を収めることになるF2002を設計する。2002年シーズンのF2002はまさに最強マシンとして君臨し、シューマッハとその僚友ルーベンス・バリチェロのドライブによって全19戦中15勝を達成。ドライバーズ&コンストラクターズ・チャンピオンシップを圧倒的な形で制覇した。

5. ブラウンGP BGP 001
ブラウンGP BGP 001
ブラウンGPの活動期間はわずか1年シーズンだったが、その2009年シーズンではドライバーズ&コンストラクターズの両タイトルを獲得した。ブラウンは2008年シーズンの世界的な金融危機の煽りを受けてF1撤退を余儀なくされたホンダF1チームの資産を買い取るという大きな賭けに出た。2009年シーズン開幕までのごく限られた時間の中で、ブラウンはメルセデス・ベンツからエンジン供給の確約を取り付け、さらにはブラウンGP BGP 001のシャシー完成までこぎつけた。ブラウンGP BGP 001には2009年シーズンから施行された新たなテクニカルレギュレーションを巧妙に解釈したダブルディフューザーを採用。これは元々、ホンダのエンジニアたちがスーパーアグリのために開発したデザインだと言われている。バルセロナで行われた開幕前のプレ年シーズンテストにジェンソン・バトンのドライブでトラックデビューを果たしたBGP 001は、走り出しからいきなり他のマシンより1.5秒近くも速いタイムでサーキットを周回。しかもバトンがピットに戻ってきて最初に放った一言が「マシンのセットアップがおかしいよ」という不満だったというから傑作だ。こうして始まったブラウンGPの快進撃は、年シーズンが開幕を迎えても止まる気配はなかった。バトンがバリチェロを従えて開幕戦オーストラリアGPで1-2フィニッシュを飾ったシーンは、F1史における屈指の偉大なサクセスストーリーの象徴として今も記憶に刻まれている。そして、バトンはこのまま2009年シーズンを圧倒し、自身初にして唯一のF1ドライバーズチャンピオンを獲得した。また、ブラウンGPは同年シーズンのコンストラクターズタイトルも獲得し、バトンとバリチェロのコンビは2009年シーズンの全17戦中8勝をマークした。機を見るに敏なブラウンは、2010年シーズンを前にチーム株をメルセデスに売却。チーム名はメルセデスGPへと改められた。ブラウンはチームプリンシパルに留任したが、バトンはマクラーレン、バリチェロはウィリアムズへと去り、その後釜には2006年シーズン以来の現役復帰を決めたミハエル・シューマッハと当時5年目の年シーズンを迎えようとしていたニコ・ロズベルグが収まった。1年シーズンを幻のごとく駆け抜けていったブラウンGPの夢物語は、まさに空前絶後のストーリーだった。

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カテゴリー: F1 / F1マシン