角田裕毅は、F1で勝利を挙げて同じ相模原出身の先輩ドライバーである片山右京を泣かせたいと笑う。相模原出身の角田裕毅は、日大三高から和光高校に転校している。日大三高は片山右京、和光高校は佐藤琢磨の母校だ。1億2000万人の日本から17人しか誕生していないことを考えれば、これは驚くべき偶然だ。
「転校した高校が佐藤琢磨さんの母国だったです」と角田裕毅は GP Racing 笑顔で語った。だが、そのことに気づいたのはごく最近だったという。父親がレース好きで、角田裕毅も地元の大会に出場してはいたものの、決してF1の大ファンではなかったため、片山右京のことも佐藤琢磨のことも知らなかった。「何度かF1レースを見に行きました。7歳の時、初めて富士に行きました。雨が降っていたのを覚えています。でも、あの音が好きになれませんでした。とてもうるさくて、ずっと耳をふさいでいました。実際、僕が覚えているのはできるだけ早く家に帰りたかったということだけです」「小さい頃は、レースだけが好きなわけではありませんでした。サッカー、スキー、スノーボード、アメリカンフットボール、バスケットボールなど、あらゆるスポーツが好きでした。だから、その時点で僕にとってはレースだけが重要なものではありませんでした。テレビで数回見た程度です。昨年のF2シーズン中に初めてチャンピオンシップの途中から最後までF1を見始めました」だが、角田裕毅のキャリアにおいて重要な役割を果たしたのは、もう一人の日本のF1ドライバーだった。2016年にホンダの鈴鹿サーキット・レーシング・スクールのメンバーだったとき、角田裕毅はホンダの育成プログラムの選考に落ちている。だが、角田裕毅は、日本初のフルタイムのF1レーサーであり、ロータス・ホンダでアイルトン・セナのチームメイトだった中嶋悟によって救済されている。「11月だったと思います。それまではとてもうまくいっていて、常にP1とP2を争っていました。3月から初めてほとんど経験がなかったので、かなり低いポジションから始めて、かなり上達していました。でも、その時点で、僕はまだプレッシャーに本当に弱かったんです。最終テストでは、3つのレースがありましたが、2レース連続でジャンプスタートをしてしまい、もう1つのレースでもコースオフしてしまいました」「それで、最初は落ちたと聞いていました。でも、中嶋悟さんが最後のイベントに来ていました。中嶋さんは、昨日ちょうどシケインを見ていて、特にシケインでの僕のドライビングに感動したと言ってくれました。それで、彼がホンダに僕を彼らのジュニアプログラムに採用するよう勧めてくれました」「もし、僕が落とされていたら、レースを辞めるつもりでした。だから、彼がいなかったら、僕ここにいなかったと思います」もちろん、角田裕毅は、中嶋悟が誰なのかも知らなかった。とにかくマシンを速く走らせたいだけだった。それ以来、角田裕毅のキャリアは急速に発展した。2017年に全日本F4選手権を3位で終えると、1年後には14レース中7レースで勝利を挙げてチャンピオンを獲得。ハンガリーでレッドブル・ジュニアチームのF3のテスト参加して合格。ホンダは角田裕毅の活動の場をヨーロッパに移すことに決定した。必然的に、ヨーロッパに適応するのに少し時間がかかった。角田裕毅は、英語で自分自身を表現するのに苦労し、F3での彼の進歩を少し遅らせたと認める。「もちろん、ホンダは大いに助けてくれました」と角田裕毅は語る。「たとえば、アパートと連絡を取ってくれたりしました。また、レッドブルのパーソナルトレーナーもかなり助けてくれました。でも、一人で引っ越してきて、F3シーズン前半は少し苦労しました」「幼稚園のときにインターナショナルスクールに通っていて、そこではほとんど英語を話していました。遊んでいるときでさえ、英語を話さなければなりませんでした。だから、ほとんどの日本人と比べて、英語はかなり得意でした。でも、中学生からはあまり使わなくなったので、正直、ほとんどの語彙を忘れてしまい、特にスイスに引っ越してから最初の3か月は、脳内ですべてを翻訳していいるような感じでした」「シーズン前半はF3でも少し苦労しました。トラックマップにここはアンダーステア、ここはオーバーステアといったようにフィードバックを書きこんでいましたね。その時点ではそれで十分でした。でも、最後の詳細の部分をどうやって説明していいのかがわかりませんでした」「完璧なセットアップにするのに少し時間がかかりました。でも、少しずつ上達していき、シーズン後半からもう少し詳しく話せるようになりました。翌年、イギリスに引っ越して、英語も大いに役立ちました。良い一歩でしたね」ヨーロッパに適応するのに言語では苦しめられたが、そこは天性のスピードで埋め合わせた。角田裕毅は2019年シーズン終盤にF3初勝利を挙げ、2020年にF2にステップアップ。シーズン序盤は不用意なクラッシュがあり、レッドブル・リンクでのレースでは無線トラブルによって勝利を失うなどの不運もあったが、ランキング3位でシーズンを終えてF1スーパーライセンス取得の資格を満たした。そのパフォーマンスは、レッドブルF1のモータースポーツアドバイザーを務めるヘルムート・マルコにF1へのステップアップを納得させるのに十分すぎるほどだった。ホンダF1が撤退に向けて準備を進めていたという事実は、ヘルムート・マルコに影響を与えたかもしれないが、それでも彼は若い速いドライバーにはしっかりと報いることで知られている。結果として、角田裕毅はヨーロッパで2年の経験だけでモータースポーツの頂点であるF1まで上り詰めることになったが、決して動揺することはなかった。なぜなら、F1についてそれほど多くのことを知らなかったからだ。F1デビューについて角田裕毅は「確かに、僕が期待したものではありませんでした」と認める。「実際、バーレーンの前は・・・あまり怖くなかったですね。シーズン前半に表彰台を獲得しようとさえ思っていた」角田裕毅は、DRSを早く開けるというトリックもあったが、プレシーズンテストを総合2番手で終えており、初レースにむけてあまり心配はしていなかった。ミディアムで挑んだQ2で敗退してQ3進出はならなかったが、13番手からスタートした角田裕毅は、いくつか素晴らしいオーバーテイクを見せ、F1デビュー戦を9位入賞を果たしている。「バーレーンの後、自分のパフォーマ...