1998年のF1は、長年続いた勢力図が大きく崩れた転換点だった。1992年以降、ウィリアムズとルノーは圧倒的な支配体制を築いてきたが、その終焉を決定づけたのがFW20だった。前年にチャンピオンを獲得したチームは、わずか1年で勝利ゼロ・ランキング3位へと転落。123ポイントから38ポイントへの急落は、単なる不振ではなく構造的崩壊を示していた。
ルノー撤退と旧型エンジンが生んだ致命的ハンデ転落の最大要因はパワーユニットだった。ルノーは1997年限りでワークス活動を終了し、1998年のウィリアムズは実質的に前年型エンジンを使用することになる。メカクロームとして供給されたそのエンジンは、メルセデスやフェラーリの開発型ユニットに対して30〜50馬力の差があったとされる。この出力差はストレートスピードに直結し、レース全体で決定的な遅れを生んだ。2000年からBMWとのワークス体制が始まるまで、この“つなぎ”の状態がチームの競争力を大きく制限した。ニューウェイ離脱が奪った開発の中核もうひとつの致命傷が、エイドリアン・ニューウェイの離脱だった。1997年シーズン前にマクラーレンへ移籍したことで、ウィリアムズは開発の核を失う。FW20はギャビン・フィッシャー、ジェフ・ウィリス、パトリック・ヘッドの3人体制で設計されたが、ヘッド自身が「保守的」と評した通り、革新性を欠いたマシンとなった。特に1998年のレギュレーション変更(ナロートレッド化、グルーブドタイヤ導入)に対し、ニューウェイ不在の影響は大きく、適応に完全に出遅れた。その背景には政治的対立があった。フランク・ウィリアムズはチーム支配権を譲らず、ニューウェイの株式取得要求を拒否。さらにドライバー人事でも意見が反映されなかったことが決定打となり、離脱へとつながった。開幕時点で露呈した“勝てないマシン”プレシーズンテストの段階で、FW20の限界は明らかだった。ジャック・ビルヌーブは数周で「勝てるクルマではない」と判断する。開幕戦オーストラリアGPでは、ポールから2.5秒差の4番手。決勝では周回遅れという、前年の王者チームとしては考えられない状況に陥った。その後も状況は改善せず、チームはベネトンやジョーダンと“ベスト・オブ・ザ・レスト”を争う中団チームへと転落した。王者ビルヌーブの離脱が象徴した内部崩壊結果以上に深刻だったのが内部の崩壊だった。ビルヌーブはFW20を公然と批判し、チームへの不信感を強めていく。そしてシーズン途中、新規参戦のBARへの移籍を決断する。「ウィリアムズでは自分は部品の一つに過ぎない。BARではゼロから世界を作れる。崩れかけた宮殿の住人でいるより、新しい家の設計者になりたい」この発言は、当時のチーム状況を象徴していた。トップチームのエースが、新興チームを選ぶという事実そのものが、ウィリアムズの地位低下を物語っていた。わずかな光と、決定的な終焉それでもシーズン中盤にはドイツとハンガリーで3位を獲得し、わずかな競争力は示した。しかし優勝争いには一切絡めず、トップとの差は常に大きかった。最終的にFW20は3度の表彰台のみでシーズンを終え、ウィリアムズは10年近く続いた支配体制を完全に失う。赤いカラーリングに変わったそのマシンは、かつての栄光とは対照的な存在となり、結果的に「王朝の終わり」を象徴する1台として記憶されることになる。なぜ1998年が“分岐点”だったのかFW20の失敗は単発の開発ミスではない。エンジン供給体制、技術トップの流出、組織統治の硬直化という複数の要因が同時に表面化した結果だった。つまり1998年は、“結果が崩れた年”ではなく、“構造が崩れた年”だったと言える。そしてこの時に失われた技術力と組織力は、その後長期間にわたって回復することはなかった。FW20は単なる不振マシンではなく、ウィリアムズF1の歴史における明確な断絶点となった。Source: Motorsport Week
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