キャデラックは2026年にF1の11番目のチームとして参戦する予定だが、そのドライバーラインアップやマシンカラーリングなど、多くの不確定要素が残されたままだ。では、過去にF1に新規参入したコンストラクターたちは何を教えてくれるのだろうか。F1には時に、甘さを打ち消すような鋭さが必要になることがある。レモンソルベやラズベリークーリのような存在だ。2026年からのキャデラックの参入は、そのような要素をF1にもたらす可能性を秘めている。
チームはフェラーリのパワーユニットを搭載し、シルバーストンを拠点に元F1関係者を中心とした体制を構築している。親会社のTWGグローバルとゼネラルモーターズから強力な支援を受けていることも確かだ。しかし、現時点でドライバーは未発表であり、リバリーやスポンサー(トミー・ヒルフィガーを除く)も明らかになっていない。2026年シーズンの序盤に向け、今後数か月の間に主要な契約が次々と決まっていくとみられる。GMが支援する「真のアメリカンチーム」として注目されることに疑いはない。ハースも自らをアメリカンチームと称してきたが、その運営モデルは実質的にヨーロッパ中心であり、イメージとは乖離していた。F1の歴史には、新規参戦チームが成功するために通るべき道筋が刻まれている。それは長く、困難に満ち、時に致命的な落とし穴もある。キャデラックもそれに足を取られる可能性があるが、それもまた学習の一環と言える。ただし、過信は禁物だ。自信過剰は失敗のもとであり、そこに陥ってはならない。本稿では、1990年以降に初参戦したチームを例に挙げる。資金難や組織の未熟さから短命に終わった多くの例を除外し、チーム買収ではなく純粋な新規参戦に絞っている。ポイント1:優れた信頼性のあるドライバーを惹きつけること成功例:ザウバー(1993)、スチュワート(1997)、BAR(1999)、ロータス・レーシング(2010)これらのチームは、F1で実績を持つ経験豊富なドライバーを説得し、チームに迎え入れるだけの魅力と競争力のある報酬を提供していた。ザウバーは、F1で2シーズン半の経験を持つJJレートを獲得し、メルセデスのプロテジェ(庇護下)であるカール・ヴェンドリンガーとコンビを組ませた。このうちヴェンドリンガーの方が輝きを放ったが、レートもキャラミでのデビューレースでチームに初ポイントをもたらす役割を果たした。スチュワート・グランプリは、ヤン・マグヌッセンと組ませる形でルーベンス・バリチェロを起用することに成功した。マグヌッセンの起用は期待ほどには機能しなかったが、彼は1994年の英国F3選手権で、ハッキネンやセナ以上の圧倒的な成績を残したことで高い評価を受けていた。なお、スチュワートは1996年王者のデイモン・ヒルの獲得も検討していたが、ヒルは新興チームへの加入はリスクが高すぎると判断して断った。その後継チームとなるBARは、1997年F1王者ジャック・ヴィルヌーヴを獲得し、1998年のFIA GT王者でもあるF3000王者リカルド・ゾンタと組ませた。BARの初年度は成功とは言えなかったが、ヴィルヌーヴ獲得は大きな成果だった。カナダ人の彼は、マクラーレンやベネトンでの可能性を断ってまで、旧友でチームマネージャーのクレイグ・ポロックの説得を受けてBARに残留した。2010年に「ロータス」としてF1に復帰したチームも、F1で勝利経験のあるヤルノ・トゥルーリとヘイキ・コバライネンという2人のドライバーを起用した。これは非常に魅力的なラインアップだったが、トニー・フェルナンデス率いるこのチームは既存チームに対抗するには至らず、初年度は無得点に終わった。2011年にはやや成績が向上したものの、2012年にはトゥルーリが直前でビタリー・ペトロフと交代した。ペトロフは堅実なレースを展開しつつ、チームの資金調達にも貢献した。失敗例:スーパーアグリ(2006)の第2ドライバー、パシフィック(1994)2名体制が基本となる現在のF1では、2人とも実力に欠けるという陣容は少ない。多くの場合、1人のベテランと1人の若手、あるいは経験者と資金提供者という組み合わせが主流だ。パシフィックの1994年体制を取り上げると、ベルント・ガショーは堅実かつ資金力もあるドライバーとして妥当な選択だったが、ポール・ベルモンドは完全に資金目当ての起用だった。F3000で5年間にわたってわずか3ポイントしか獲得していなかったベルモンドは、1992年に資金力を武器にマーチのシートを買い取り、11戦を走ったが非常に遅かった。その後1994年にガショーとともにパシフィックに加入した。F3000出身のこのチームは競争力のないマシンしか用意できず、ガショーはなんとか5回グリッドに並んだが、ベルモンドはモナコ(ザウバーの撤退)とバルセロナ(アンドレア・モンテルミニのクラッシュ)によって生じた空きで、かろうじて2戦に出場しただけだった。スーパーアグリも同様で、F1ファンに愛された英雄で後にインディ500を2度制する佐藤琢磨と、当時ほぼ無名だった井出有治を組ませた。チームはホンダの意向で日本人ドライバー起用を優先し、アグリ・スズキと旧知の間柄だった井出を起用。フォーミュラ・ニッポンでの成績も良好だったが、英国を拠点とするチームのエンジニアとまったく噛み合わず、わずか4戦でスーパーライセンスを剥奪された。その後、フランク・モンタニーが数戦に出走し、最終的には山本左近が残りのレースを走った。ポイント2:適切なパートナーを得ること成功例:スチュワート(1997)、トヨタ(2002)F1引退後、世界的なブランドと関係を築いてきたジャッキー・スチュワートは、世界中の有名企業のCEOの連絡先が詰まったローロデックスを手にしていた。まず彼が行ったのは、フォードにワークス支援を要請することだった。これによりスチュワート・グランプリの基盤が築かれた。さらに、HSBC会長のサー・ウィリー・パーヴスを説得し、銀行の取締役会にスポンサー契約の提案をさせることにも成功した。結果的に、テキサコ、SANYO、マレーシア政府観光局などがチーム初年度から名を連ね、上位中団のチームに匹敵する予算規模を確保することができた。トヨタは、莫大な資金を自らのプロジェクトに投じるだけでなく、白と赤のマシンに自身のブランドを掲げるために、多くの巨大企業と契約を結んだ。パナソニックとのタイトルスポンサー契約はF1参戦期間を通して継続され、Esso、Wella、Travelex、AOLタイムワーナーといった企業も名を連ねた。こうした一流スポンサーの集合は、1980年代後半以降の新規チームの常識を覆すものであった。それまで新チームの多くは、企業規模が小さいスポン...