F1への昇格を目指す若手ドライバーにとって、F1チームのリザーブドライバーとして1年間レースを離れて公式テストや金曜フリー走行への出走しながらチャンスを待つというのがある種の伝統的な道だった。しかし、近年、ストフェル・バンドーンとピエール・ガスリーが、GP2(現F2)チャンピオンを獲得した後、日本のスーパーフォーミュラに送り込まれ、踏み台としてレース感覚を磨いてF1へと上り詰めた。
外国人ドライバーにとってスーパーフォーミュラ、日本のレース界はどのように映っているのだろうか?1995年から全日本F3への参戦していたペドロ・デ・ラ・ロサは「日本に行ったとき、今後何年走ることになるのかわからなかった。僕がわかっていたのは、うまくいけばお金を稼ぎ、経験を積むために残れるということだけだった。ヨーロッパではスポンサーシップがなかったからね」と当時のことを振り返る。「だからこそ、母国を離れるのは厳しいことだった。『1年で戻ってくる』というものではなかったからね。1年で戻ってくれば、それは僕が十分に成功できなかったことを意味していた」ペドロ・デ・ラ・ロサのコミットメントは成果を挙げ、3年間の日本でのレース参戦で全日本F3選手権、全日本GT選手権、フォーミュラ・ニッポンでタイトルを獲得したペドロ・デ・ラ・ロサは、母国での関心を高め、F1予算を引き上げることに成功した。日本のレースシリーズは、海外と比べると特殊だ。確立されたチーム、長年参戦してきたドライバーが続けてきた。外国人ドライバーではアンドレ・ロッテラーは2003年から2017年、ジョアオ・パオロ・デ・オリベイラは2006年から2016年までスーパーフォーミュラ(フォーミュラ・ニッポン)に参戦して新たなビジターにベンチマークを提供した。2013年から昨シーズンまでスーパーフォーミュラで戦ったジェームス・ロシターは「10年以上チャンピオンシップにいるようなベテランのプロたちとレースをする。それは別のチャレンジだ。ジュニアフォーミュラではないし、かなり多くの経験をもった年配のドライバーと戦うシニアシングルシーター選手権という意味合いが強い」と述べた。経験豊富な地元のヒーロは、常に日本のシリーズを強くする重要な要素だった。過去のチャンピオンである中嶋悟や片山右京はF1に昇格する機会を得た。最近では海外で経験を積んでF1まで上り詰めた中嶋一貴や小林可夢偉が日本に戻って参戦している。また、日本を離れることがなかったり、海外では苦戦を強いられた日本人ドライバーが常に存在する。その典型的な例は1993年に46歳でタイトルを獲得した星野一義だ。また、最近のシリーズチャンピオンである石浦宏明、国本雄資、山本尚貴は、海外ではほぼ無名だ。「非常に優れたドライバーのいる非常に競争的なシリーズだ。日本人ドライバーの多くはかなり強い。でも、海外でレースをするために成田から飛び立つと、彼らの頭の中で何が起こっているかはわからないけど、彼らはみんなスピードを失ってしまうんだ! 非常に奇妙だ」とペドロ・デ・ラ・ロサは語る。「どの年であろうと、難しいチャンピオンシップだ。バンドーンやガスリーのようなドライバーがそこにいたのはいいことだと思う。シリーズの復活のようなものだ」ストフェル・バンドーン以前には、1993年にマネージャーのウィリー・ウェバーによってフォーミュラ・ニッポンに送り込まれたラルフ・シューマッハを除いては長期的な将来を明確に描いてして日本に来た外国人ドライバーはほとんどいなかった。ウィリー・ウェバーでさえ、ラルフ・シューマッハにF1シートを保証することができなかったが、日本行きの戦略は成功し、1996年フォーミュラ・ニッポンの初代チャンピオンを獲得したラルフ・シューマッハは1997年にジョーダンの契約を確保している。また、何人かのドライバーは、F1への足掛かりとして全日本F3を利用していた。エイドリアン・スーティルは2005年にタイトルを獲得してスパイカーのF1契約を獲得。2009年に参戦したマーカス・エリクソンは、キャリアの学習過程において貴重なステップを果たした。1992年に参戦したジャック・ヴィルヌーブは“大学の一年”だったと振り返る。「英語を話せない日本人エンジニアがいたことで、仕事の仕方を再学習することを強いられた。自分のことを説明し、クルマを進歩させるための方法を見つけなければならなかった。それまで僕は右足でブレーキをかけていたけど、左足ブレーキにすべきだと決心した。彼らは丸一日テストさせてくれたので練習することができたし、そこから僕はずっと速くなった。残りのキャリアでもそれを継続した」とジャック・ヴィルヌーヴは振り返る。だが、近年、スーパーフォーミュラはテストは2回のプレシーズンテストに限られ、海外からやってきたドライバーが結果を出すのは厳しい環境になっている。「人々はシリーズの挑戦を過小評価しているかもしれない。特にトップチームはとても確立されている。テストがないので、トップチームにいなければ、勝つことはできない」とジェーム・ロシターは語る。「レース週末に直接出かけて行って、すぐに結果を出さなければならない。可夢偉に来てみればいい。鈴鹿でザウバーのためにF1で表彰台フィニッシュした男が、2016年には1ポイントしか獲得できなかったんだからね! 本当に要求が厳しい」「ストフェルが長い間レースに勝っていなかったチームに加入した。それを好転させて、勝てるチームを作るのは大きなチャレンジだった。あのチャンピオンシップで2レースで優勝するのはとても難しい。ルーキーシーズンでは特にね。それがどんな挑戦だったとしても、彼が達成して事を過小評価してはならない」ジョアオ・パオロ・デ・オリベイラは「2017年のガスリーはとても印象的だった。特にシーズン後半は本当に強くなっていた。前年にバンドーンはうまくっやっていけど、ガスリーの方が一枚上手だったと思う」と語る。テストだけが変化ではない。これまで日本のレースシリーズは、自動車メーカーから給与をもらってスーパーフォーミュラとSUPER GTを掛け持ちして生計を立ててきた。しかし、日本でもメーカーチームが給料を払ってドライバーを雇うという時代は終わりつつあり、ルーキーテストに参加するのにも投資が必要となってきている。「ラルフ・シューマッハは日本のチームの運営方法を少し変えた最初のドライバーだったと思う」とペドロ・デ・ラ・ロサは振り返る。「それまではチームがドライバーを選んでいた。彼らは給料を払わなければならないことを認識...