4度のF1ワールドチャンピオンであるアラン・プロストは、F1チームのオーナーになったことはキャリアで“最大の間違い”だと述べ、契約書にサインする数日前に契約を破棄したかったことを明かした。アラン・プロストは、1997年F1シーズン開幕前に、リジェを買収してプロスト・グランプリを立ち上げた。アラン・プロストが買収する前に設計された無限ホンダ・エンジンを搭載し、ブリヂストン・タイヤを履いたJS45に乗るオリビエ・パニスは、最初の6戦で2度表彰台に立ち、チーム代表としてポジティブなスタートを切った。
しかし、1998年はマシンを独自に設計し、独占契約の一環としてプジョー・エンジンに変更するとプロスト・グランプリは低迷。ポイントもめったに獲得できなくなった。1999年はF1ヨーロッパGPで1度表彰台に立ったきりで、2000年はノーポイントだった。2001年は、エイサー・ブランドのフェラーリエンジンに切り替えて調子は上向いたが、プロスト・グランプリはその年末に撤退した。アラン・プロストは、大いに後悔しながらその時期を振り返り、実際プジョーとの5年間無料エンジン契約が3年の有料契約に変更されたときに手を引こうと思ったことを明らかにした。アラン・プロストは、F1カナダGPでのオリビエ・パニスの追い上げについて「チームを始めて3ヶ月後、非常に良い結果が出て、レースに勝ちそうになった」とコメント。このレースでオリビエ・パニスがクラッシュして足を骨折しなければ、優勝したと考える人は多い。「しかし、家族や親しい友人にはいつも『ダメだ』と言っていた。最初からわかっていた。私はF1のことを知り過ぎている。この世界を知り過ぎている」「私が間違いを犯したとすれば、それだ。あんなことはするべきではなかった。土壇場になってチームを持つという決断を下すべきではなかった」「契約書にサインする2日前、もう嫌気がさしていた。プジョーとの契約があり、5年間の無料エンジンをどんどん開発するという話だった。しかし、彼らは私がサインした2日後にやって来て、3年契約でエンジン料金を払ってくれと言った・・・やっぱりやめてよかった」またアラン・プロストは、アイルトン・セナが存命中にリジェとの契約が始まっていたので、チーム代表とF1ドライバーとして組むという見込みについてアイルトン・セナとジョークを言っていたことを明かした。「面白かった。おそらく事故(1994年サンマリノGPでのアイルトン・セナの死亡事故)の1週間前だったが、私たちは電話で話をしていた。アイルトンに『私がいつかチームを持って君が私のドライバーになったら面白いだろうな』と言ったんだ。その当時、すでにリジェを買収する話をしていた。交渉は1994年開幕時に始まった。それが実現していたら素晴らしかっただろうね」