イギリス南部、緑に囲まれた工業団地。ガトウィック空港の飛行経路の真下に立っていて、ふと思った──ここはハリウッドから随分遠い。だがこの何の変哲もない倉庫やガレージの並びのなかに、『F1/エフワン』のスターのひとつが潜んでいる──ただし、それはブラッド・ピットではない。通りかかったポルシェ993が別の映画用に無惨に切り刻まれ、美容整形さながらに改造されようとしているのを避けたその先に、金色のノーズコーンを備えたAPXGPのマシンがガレージの中に姿を見せた。
これはまさに、ジョー・コシンスキー監督が手がけ、6月25日に世界公開された映画『F1/エフワン』の中で、ピットと共演のダムソン・イドリスが演じる──いがみ合う架空のチームメイト、ソニー・ヘイズとジョシュア・ピアースがレースする──その車両だ。この仕事の特権のひとつは、本物のF1マシンのすぐ近くに立てることだ。そしてガレージに入ると、静かに佇むこれらのマシンのそばにいるときに感じる、まるで名馬の厩舎に入ったような、敬虔な禅のような感覚が訪れる。だが、その見た目とは裏腹に、この“野獣”はサラブレッドではない。むしろ、“晴れ着を着たラバ”に近い。この車両を生み出したのはグラハム・ケリーと彼のチーム「GK Evolution」だ。ケリーは元モータースポーツエンジニアで、30年以上前にこの映画車両専門会社を立ち上げた。ケリーの映画業界での実績は驚異的で、『ボーン』シリーズから『007』にまで及び、さらにはジョン・フランケンハイマー監督──1967年のF1映画『グラン・プリ』の演出でも知られる──による伝説的スタントシーン満載の映画『ローニン』にも関わっていた。それでも、彼は「今回ばかりは今までの経験とは違った」と語る。「この映画の話が来たとき、断ることなんてできなかった」とケリーは笑いながら話す。私たちは彼のオフィスで話している。そこから見下ろせる作業ベイでは、彼のチームが様々な自動車部品を扱っている。「たしか、僕はこの映画に関わった4人目の人間だったと思うよ」「2022年に最初の電話が来て、その7月にはジェリー・ブラッカイマーとジョー・コシンスキーと一緒にシルバーストンのレースを視察した。それは面白かったよ。その後いったん話は止まった。僕は当時イタリアで別の映画に取り組んでいて……でも9月にまた電話があって、『よし、来シーズンから撮影を始めたい』って言われたんだ」「その時点ではキャストもいなかったし、はっきりした構想もなく、あるのは数個のアイデアだけ。でも、僕がいないところでルイス・ハミルトンがジョーをトト・ヴォルフに紹介して──そこでいろんなアイデアが交わされて、“じゃあ車を作ろう”ってことになった」ルイス・ハミルトンは『F1/エフワン』の初期段階から開発に関与していた。メルセデスの参入ケリーが『F1/エフワン』用に考案したマシン製作のコンセプトはシンプルだった。メルセデスのApplied Science部門がF1風のボディワークを設計し、それをF2シャシーにスペーサーを挟んで幅と全長を拡張したものにボルトで取り付ける。だが、外見だけでは不十分だった。コシンスキーが描いていたのは、映像に入り込めるような臨場感たっぷりの走行シーンだったからだ。だから、ケリーのガレージに今ある初号機のAPXGPマシンには、実際のF2用メカクロームエンジンが搭載された。つまり、完全に本物のレース用マシンと同じ走りができる仕様だった。その後、同じくメカクロームエンジンを搭載した車両がもう1台、さらにGP3時代のV6エンジンを積んだマシンが2台加わった。そして、ケリーが思いついたのが1台の電動シャシーだった。「映画の多くの部分がピットレーンで撮影されることになりそうだった」と彼は語る。「ここで映画とモータースポーツの両方の経験が役に立った。すぐに気づいたんだ、ピットレーンではガソリン車は使えない。爆発するよ!」「だから、400ボルトの完全電動システムを組み立てたんだ……正直言うと、あの車がなかったら本当に撮影が続けられなかったと思う」F1グランプリでの撮影シルバーストンとスペインのアスカリ・サーキットで調整した後、実際のF1グランプリでの撮影が始まった。映画チームは実際のレースウィークエンドに潜入し、2024年のイギリスGPでは、APXGPマシンがフォーメーションラップの最後尾を実際に走る場面まで撮影された。だがここで、ハリウッドの手法と現実のモータースポーツの壁にぶつかる。「普通の映画では、シーンを設定して、車を走らせて、最後でカットして“ナンバーワン”の位置に戻して、何度も繰り返すんだ」とケリーは言う。「でもF1カーやレースカーでは、それができない。アイドリングしているだけでも過熱してしまうし、走行中はラジエーターに空気が流れないといけない。ブレーキも冷却が必要だし、そうしないとピットレーンに戻ってくるころにはマシンが火を吹く」「だから僕はずっと言ってた。『クールダウンラップが必要だ』『空気を流して冷やさないとだめだ』って。映画のスタッフの多くは、ここが“モータースポーツの世界”だということを理解するのに苦労していた。でも最終的には、すべてがうまくまとまったよ」適したカメラカーを探して速い車が走っているだけでは足りなかった。『トップガン マーヴェリック』を手がけたばかりのジョー・コシンスキーは、同じような臨場感ある追従カメラ映像を撮るため、高速で並走できるカメラカーを必要としていた。「でもすぐに分かった。僕らには、これらの車に追いつける従来型のカメラカーがなかった」とケリーは言う。「いろいろ試したけど、最終的にアメリカから持ってきた古いLMP(ル・マン・プロトタイプ)カーを使うことになった。直線は速かったけど、コーナーでは全然だめだった」「我々のマシンがコーナーを立ち上がると、すぐに消えてしまう。そしてカメラカーのドライバーはストレートで追いつけない。これは大きな問題だった」「最終的には、そのアメリカ製の車はダメだと判断した。というか、ハンガリーでぶっ壊れた。オイル圧が落ちて、ポンプが壊れて……僕はその時言ったんだ。『あれはもう終わりだ。送り返せ』ってね」代わりに使用されたのが、GP3エンジンを搭載したAPXGPのマシンのひとつだった。理想的とは言えなかったが、映像のインパクトを高めるには十分だった。「GP3マシンはF2車両ほど速くなかったけど、スピードを抑えられたし、カメラとの動きも相性が良くて、映像に十分な“スピード感”が出せたんだ」ブラッド・ピットとダムソン・イドリスは、マシンの運転に備えて厳しいトレーニングを積んだ。俳優であり、同時にレーシングドライバーでもある映...