あなたがドライバーとしてのキャリアをスタートさせた際、誰がもっとも援助してくれましたか?「それは間違いなく、僕の両親さ。彼らのことはとても誇りに思っているし、両親が僕のためにしてくれたすべてのことに心から感謝している。若い時には、多くの物事を決定するのは難しい。だから、いろんな面で両親に頼るしかない。僕のお父さんとお母さんは、僕がすることを常に受け入れて、サポートしてくれた。8歳から10歳にかけて、僕はレーシングカートの練習を一生懸命にした。でも故郷のクラクフにはカート用のサーキットがなかったの...
13歳の時に戦いの場をイタリアへ移したことをどのように感じていますか?「僕はポーランドでのレースで戦いつくしてしまった。その当時、イタリアのチャンピオンシップがもっとも厳しいカートシリーズだった。僕たちはヨーロッパの最高のドライバーに対して、自分の力が通用するかどうか知りたかった。ちょうど前の年に、数人のポーランド人ドライバーが同じようにチャレンジしていたが、最終レースに出場する上位20人に入ることができなかった。したがって、それが僕たちの目標になった。でも僕は最初に出場した2レースでポールポジションを獲得し、2位でフィニッシュすることができた。この成績は、僕たちが正しいことをしていたという重要な確証を、僕と父に提供してくれた。物事はうまく進んでいたが、非常に悪い時もあった。それは僕の父がお金を使い果たしてしまった時だった。1998年当時、僕たちはポーランドの標準よりもかなり裕福だったけれども、国外では決してそんなことはなかった。今日でもドイツとイタリアの平均的な所得は、またポーランドでよりも 6〜7倍はある。僕たちはヨーロッパのチャンピオンシップをあと1戦だけ出場できるだけのお金しかなかった時に、幸運にもCRGチームと契約を交わすことができたんだ。それから僕はチームオーナーの家族と一緒に住み始め、16歳になった時に自分で借りた家へ引っ越すことになった。僕の両親は頻繁にイタリアにやって来ることができなかった。そのような状況ではとても速く人生について多くのことを学ばなければならない。つまり、人より早く大人になるのさ。」これまでのキャリアの中で耐えてきた、最悪の経験とは?「乗客として乗っていたクルマで事故に遭い、負傷した時だね。僕の腕はひどい損傷を受けたので、誰もが僕は半年は外出できないと思っていた。でも、それが3ヵ月になって、最後は1ヵ月と10日になった。その日、僕は初めてF3のマシンをドライブして、初優勝を飾ったんだ。僕はできるだけ早くマシンに戻りたかった。事故はポーランドで起きたんだけど、僕は治療のためにイタリアへ連れて行かれた。その病院のお医者さんには非常に感謝している。彼らは驚くほどよく僕の世話をしてくれた。」では最高の瞬間は?「多分、自動車事故のあとにノリスリンクで開催されたF3のレースだろう。傷ついた腕は約70パーセントしか使えなかった。ギア操作をするために、もう一方の腕を使った。ノリスリングにはほとんど速いコーナーがなかったので、(ハンドルを強く握る必要がなかったために)大いに助かった。でも、ユーロF3シリーズでの勝利は、僕にとって最高の瞬間だった。」F1に参戦することは、あなたの目標でしたか?「F1は確かに夢だったけど、僕はそれが本当の目標とは思っていなかった。僕の目標は、もっと現実的なものだった。特にたくさんの資金を用意できなければ、F1でシートを得るためには運が必要となる。でもマリオ・タイセンが僕に電話をしてきて、2005年12月にテストドライバーとしての仕事を提供してくれた時、大きなチャンスを与えられたんだ。」あなたは1m84cmと長身ですが、マシンの中で問題はありませんか?F1.06のコクピットは身長の低いドライバー用に設計されていたので、僕にとってはドライブするのは簡単ではなかった。あと数cm、背が低ければ良かったのにと何度も思ったよ。契約にサインする前、マリオ・タイセンとペーター・ザウバーがマシンに乗り込むようにと要求してきた。彼らは、僕がそのマシンできちんと仕事ができるのか、しっかりと確認したかったんだ。もちろん僕は可能な限り小さくなって自分をコクピットに押し込んだ。そしたら彼らは、「ぴったりだ」と言っていた。そんなことでチャンスをムダにしたくはないよ。そのあとすぐ、2006年シーズンの終わりに、僕はそれまでよりも大きなコックピットを備えた新しいシャシーを与えられたんだ。」自分自身で、あなたの強さは主にどこにあると思いますか?「頭脳だね。僕は精神的かなりにタフなんだ。少なくとも成功の50%は頭脳と精神面の準備を通して達成されることを学んだよ。」