小林可夢偉のF1キャリアを歴代のF1マシンで振り返る。2008年にGP2アジアのチャンピオンを獲得した小林可夢偉は、2009年に負傷したティモ・グロックの代役として第16戦F1ブラジルGPでF1デビュー。日本人18人目のF1ドライバーとなった。だが、その年でトヨタはF1から撤退。他チームのシートを求めることになる。
2012年のF1日本GPでは3位表彰台を獲得して鈴鹿を沸かせた。F1で表彰台に上がったのは鈴木亜久里、佐藤琢磨に次ぐ3人目。また、日本人初のファステストラップ、トヨタでの出走を含めた5年間で日本人最多ポイントとなる144ポイントを獲得している。トヨタ TF109(2009年)リザーブドライバーを務めていた小林可夢偉は、F1日本GPでティモ・グロックが体調不良によって金曜フリー走行を急遽欠場したため代役としてグランプリ週末デビュー。グロックが予選でクラッシュして脊椎を負傷したため、次戦ブラジルGPでF1デビュー。日本人として18人目のF1ドライバーとなった。ブラジルGPでは予選11番手、決勝では9位完走。次戦F1アブダビGPでは予選12番手から一時は3位を走行する好走をみせてヤルノ・トゥルーリを上回る6位入賞を果たした。翌年のレギュラードライバーは確実とみられたが、そのアブダビGPから3日後の11月4日にトヨタはF1撤退を発表した。ザウバー C29(2010年)トヨタを離れてザウバーと契約。チームメイトはペドロ・デ・ラ・ロサ。第15戦からはニック・ハイドフェルドがチームメイトとなった。フェラーリエンジンを搭載するC29は決して競争力は高くなかったが、第7戦F1トルコGPで10位入賞し、チームのシーズン初ポイントを獲得。32ポイントを獲得してランキング12位。ベテランチームメイトを上回った。ザウバー C30(2011年)チームメイトとして新人のセルジオ・ペレスが加入。第2戦から6戦連続でポイントを獲得。モナコGPでは自己最高位となる5位入賞を果たし、中嶋一貴以来日本人ドライバー2人目のモナコでのポイント獲得、日本人歴代最高位を更新した。30ポイントを獲得してランキング12位。これまでの日本人最多ポイントだった佐藤琢磨の44ポイントを上回った。ザウバー C31(2012年)引き続き、セルジオ・ペレスがチームメイト。第3戦中国GPでは日本人として1989年最終戦オーストラリアGPに中嶋悟が達成して以来23年ぶり、ザウバーとしては初めてのファステストラップを記録。第12戦ベルギーGPでは2番手タイムを記録し、2004年第7戦ヨーロッパGPの佐藤琢磨以来、8年ぶりの日本人予選フロントローを獲得。第15戦日本GPでは3位表彰台を獲得し、日本人としては2004年アメリカGPでの佐藤琢磨以来8年ぶり、鈴鹿では1990年鈴木亜久里以来22年ぶりとなる日本人3人目のF1表彰台登壇者となった。60ポイントを獲得しランキング12位。しかし、最終戦前にザウバー離脱が発表される。フェラーリ F10 / F60(2013年)2013年、小林可夢偉は2014年にトップチームへ移籍を目指して交渉。候補にロータスやフォース・インディアが挙げられた。ファンからの“資金協力をしたい”という声に応える形で、支援金を募る「KAMUI SUPPORT」を公式サイトに開設。日本企業のスポンサーを含めて800万ユーロ(約8.8億円)資金を確保したが、ロータスがロマン・グロージャンに残留することが決定し、“戦えるチームへの移籍が不可能になった”として支援金の受付を終了。2014年のシート獲得に充てるとした。その後、スクーデリア・フェラーリとドライバー契約を結び、AFコルセからFIA世界耐久選手権(WEC)に参戦。ロシアでのフェラーリのプロモーションイベントでフェラーリの2009年F1マシン『F60』で走行。事前に行ったフィオラノでのテスト走行では2010年F1マシン『F10』をドライブしている。雨となったイベントではクラッシュを喫した。ケータハム CT05(2014年)ケータハムに移籍。チームメイトは新人のマーカス・エリクソン。固定ナンバーで10を選択する。ルノーのパワーユニットの信頼性問題に加えて、チームの財政難によって競争力を発揮できず、第12戦ベルギーGPでは突然アンドレ・ロッテラーとの交代が発表される。しかし、第13戦イタリアGPではレースドライバーに復帰。だが、sの語チームは管財人の管理下に入り、アメリカGPとブラジルGPを欠場。最終戦アブダビGPではクラウドファンディングなどによる資金調達によって参戦が可能となったが、結果的に最後のレースとなり、レースはリタイアで終えた。このシーズンは1ポイントも獲得できなかった。