ハースF1チームの新チーム代表に小松礼雄が任命されたは、F1エンジニアから上級管理職へのキャリアアップを果たしたもうひとつの例である。エンジニアリング・ディレクターを務めていた小松礼雄は、長年ハースF1のチーム代表を務めてきたギュンター・シュタイナーに代わって就任した。ギュンター・シュタイナー自身、F1でリーダーシップを発揮する前はメカニックやエンジニアとして活躍していた。
1976年1月生まれの小松礼雄は、高校卒業後、イギリスに渡ってラフバラ大学で自動車工学の学士号と車両ダイナミクスと制御の博士号を取得した小松礼雄は、2003年にタイヤエンジニアとしてブリティッシュ アメリカン レーシング (BAR)に入社した。当時F1はまだ単独サプライヤーに切り替える前の「タイヤ戦争」時代にあった。2006年に小松礼雄はパフォーマンスエンジニアとして働くためにルノーに移り、テストチームのタイヤエンジニアからスタート。2007年にレースチームに昇進し、ネルソン・ピケ・ジュニア、ロマン・グロージャン、ヴィタリー・ペトロフなどのドライバーとともに働いた。2011年シーズンの初めにマーク・スレイドがチームを去った後、彼はペトロフのレースエンジニアに昇進した。この年に東日本大震災が発生。ペトロフが「僕のレースエンジニアであるアヤオの家族は日本に残っている」とのメッセージを公開し、その名が知られることになる。ロマン・グロージャンの右腕2012年にはロマン・グロージャンのレースエンジニアを担当。9度の表彰台フィニッシュを記録した。残念な2014年の後、小松礼雄はチーフレースエンジニアに昇進し、 2015年のベルギーGPでグロージャンとエンストンのチームが表彰台を獲得するのに貢献した。2016年にグロージャンが設立間もないハースF1チームに移籍すると、小松礼雄も彼に続き、トラックサイドエンジニアリングディレクターに就任した。2020年のバーレーンGPで壊滅的なクラッシュに見舞われF1キャリアを終えた後もグロージャンを親しい友人だと考えている。グロージャンがF1を離れた後も、小松礼雄はハースF1チームに残り、エンジニアリング・ディレクターに昇格して現在に至る。小松礼雄の昇格は、ギュンター・シュタイナーが去ったにもかかわらず、ハースF1チームにとっては継続性を意味する。事実上、マクラーレンがアンドレアス・ザイドルからアンドレア・ステラ(レースエンジニアとトラックサイドチーフの両方を経験)に2023年のチーム代表を交代させたのと同じような動きだ。
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