ロス・ブラウンは、ミハエル・シューマッハのF1ドライバーズタイトル7回すべてに深く関わった人物だが、フェラーリという「ジャガーノート(圧倒的存在)」を打ち破るために、FIAが介入したのは正しかったと、今では受け止めていると明かした。ブラウンは1996年シーズン終盤、ベネトンからフェラーリへ移籍してきたシューマッハと再びタッグを組んだ。
シューマッハはベネトン時代に2度のドライバーズタイトルを獲得しており、その際ブラウンはテクニカルディレクターを務めていた。フェラーリではブラウンもテクニカルディレクターとしての役割を担い、彼の戦略的手腕と、シューマッハ、そしてチーム代表ジャン・トッドが築いた体制が、スクーデリアを根本から変革していった。トッドは1993年にフェラーリに加わり、F1史上屈指の「ドリームチーム」を作り上げていった。フェラーリは1979年以降、長らくドライバーズタイトルから遠ざかっていたが、2000年にシューマッハがタイトルを獲得し、その状況は一変する。そこから2004年まで5連覇を達成し、これは現在でもシューマッハだけが保持するF1記録だ。その支配を終わらせたのが2005年だった。フェルナンド・アロンソがルノーで初タイトルを獲得したシーズンであり、FIAがレース中のタイヤ交換を禁止した年でもある。この規則変更により、ブリヂストンはミシュランに対抗できず、フェラーリは競争力を失った。フェラーリが2005年に挙げた唯一の勝利は、物議を醸したアメリカGPだった。ミシュラン勢が安全上の理由でフォーメーションラップ後に全車棄権し、ブリヂストン勢の6台だけが決勝を戦った一戦である。それでもブラウンは、このタイヤ規則変更について、FIAの判断は正しかったと認めている。2017年から2022年までF1のマネージングディレクターを務めた経験を通じ、当時の状況を別の立場から理解できるようになったという。「フェラーリでの時間の頂点は、2004年のマシンだったと思う。すべてが噛み合っていた」とブラウンは公式F1サイトに語っている。「フェラーリで好きだったのは、毎年すべてが前年より良くなっていったことだ。チームも、マシンも、組織の機能の仕方も、すべてが少しずつ前進していた。それが2004年という、史上最高だと思えるマシンに結実した」「その後、タイヤ規則が変わって、我々は“やられた”。だが、あまりにも成功しすぎていたし、何らかの形で止められる必要があったとも思う。あのジャガーノートは、別の方法では止まらなかっただろう。我々は、あらゆるものが完璧に機能していたのだから」「その後、反対側の立場を経験したことで、バーニー(エクレストン)やマックス(モズレー)、プロモーターたちのフラストレーションも理解できるようになった。勝たなかった時が驚きで、勝った時は驚きではない、そんな状況になっていた。あれは本当に特別なマシンだった」シューマッハは2002年と2004年にとりわけ圧倒的な強さを見せた。2002年は17戦中11勝を挙げ、全レースで表彰台に立った。2004年には18戦中13勝を記録し、最初の13戦のうち12勝を獲得している。唯一の例外は、モナコでのクラッシュだった。2006年になると、FIAは再びレース中のタイヤ交換を認める規則に戻した。2005年のヨーロッパGPで、キミ・ライコネンが右フロントサスペンション破損により首位からリタイアするなど、タイヤを巡る問題が続いたことが背景にあった。シューマッハは2006年にタイトル争いへと復帰したが、最終的にはアロンソに13ポイント届かず、その年限りでF1から引退した。ブラウンもまた、2006年シーズン終了をもってフェラーリを去る決断を下している。この一連の出来事を振り返り、ロス・ブラウンは今、フェラーリとミハエル・シューマッハの時代が、あまりにも完成されすぎていたがゆえに、規則の力で終わりを迎える必要があったと、静かに受け止めている。
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