F1史に名を刻む偉大なデザイナーたちを10名を紹介する企画の第2弾。これまでF1史において偉大な成功を収めてきたF1ドライバーたちの栄光の陰には、必ず優れたマシンが存在する。そのマシンを生み出すデザイナーは、チームにとって最も重要な成功への鍵を握る存在と言えるだろう。
かのロータスの創始者で、自らもF1史における数々の革新的なデザインを生み出したコーリン・チャップマンはこんな言葉を残している。「レーシングカーの存在意義はただひとつ。レースに勝つことだけだ。そのマシンがレースに勝てないなら、それはすなわち時間と金、労力の浪費に他ならない」アルド・コスタフェラーリとメルセデスにタイトルをもたらす現代F1界を代表するデザイナーのひとり、アルド・コスタはかつてフェラーリに在籍し、2012年からはメルセデスへ移籍。彼のマジカルな手腕でデザインされたシルバーアローはここ数年の年シーズンを席巻している。コスタはロリー・バーンのアシスタントとしてフェラーリに加入するとミハエル・シューマッハ黄金時代の立役者のひとりとして活躍。2006年からはデザイン部門のチーフへ昇格し、2007年には自らが中心となって設計したF2007でキミ・ライコネンをドライバーズ・チャンピオンへ導いたが、2011年にフェラーリを退職し、翌年にメルセデスへ移籍した。メルセデスでの彼は、テクニカル・ディレクターのボブ・ベルの主導のもと2013年シーズン用のW04をデザインし、チャンピオンマシンの基礎を築いた。パトリック・ヘッドサー・フランク・ウィリアムズと共に名門ウィリアムズを設立不屈の闘将サー・フランク・ウィリアムズと共にウィリアムズを設立したパトリック・ヘッドは自らのエンジニアとしてのキャリアのすべてをこのチームのために捧げ、27年間にも渡って同チームの技術部門を統率してきた。ウィリアムズとヘッドがウィリアムズ Grand Prix Engineeringを設立して2年目となる1979年、ヘッドがデザインを手掛けた名車FW07でクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を記録すると、翌1980年シーズンはアラン・ジョーンズが正常進化型となるFW07Bを駆ってドライバーズ・チャンピオンを獲得。1980年代中盤からは当時最強のホンダのF1エンジンを手にし、ナイジェル・マンセルとネルソン・ピケの二枚看板でGPを席巻した。その後、1990年代にヘッドがエイドリアン・ニューウェイという空力の天才をチームに引き入れると、ウィリアムズはさらなる成功を手にすることになった。ヘッドとニューウェイのコンビネーションは1991年から1997年にわたって続き、ウィリアムズは数多くのレースで勝利を記録したのはもちろん、4名のドライバーにチャンピオンをもたらした。ニューウェイの離脱後、ウィリアムズはかつてほどの技術的優位が保てなくなり、ヘッドは2011年シーズン末をもってチームの現場指揮から退いた。ゴードン・マレーF1史上屈指の珍車ブラバム BT46B「ファン・カー」を発案ゴードン・マレーはF1史に残るきわめてラディカルな珍車を手掛ける一方、圧倒的な強さを誇る名マシンも生み出してきた鬼才だ。彼の名はブラバム BT46B「ファン・カー」によって一躍有名になったが、そのあまりに独創的なデザインは1977年スウェーデンGPただ一度のみの出走で使用禁止になったほどだ(ちなみに、このスウェーデンGPでBT46Bを駆ったニキ・ラウダは見事な独走で優勝を飾った)。1980年代後半にはマクラーレンへ移籍し、スティーブ・ニコルスやニール・オートレーと共にMP4/4をデザイン。ホンダ V6ターボエンジンを搭載したこのマシンは現代でも史上最強のF1マシンのひとつとしてその名を知られている。マレーはその後F1の現場を去り、1991年にはマクラーレンの市販車部門へ移籍。現在は、軽量なシティカーおよびスポーツカーの設計を手掛けるデザインオフィスを自ら経営している。エイドリアン・ニューウェイウィリアムズ、マクラーレン、レッドブルに数多くのタイトルをもたらすエイドリアン・ニューウェイはウィリアムズ、マクラーレンといった過去に在籍したチーム、そして現在籍を置くレッドブルのすべてのチームにタイトルをもたらしており、数多のレースで勝利を味わってきた。パブリック・スクールを放校処分になったものの(学園祭のコンサートで音響を担当していた彼が音量を上げすぎて講堂のステンドグラスを割り飛ばしたことが原因)、サウザンプトン大学で空気力学の学位を取得した彼は1980年代後半にマーチ F1に加入。その先進的な空力思想を盛り込んだマシンデザインで早くも高い評価を得るようになる。1990年からはウィリアムズへ移籍しパトリック・ヘッドとの共同作業のもと5度のワールドチャンピオン獲得に貢献。1997年にマクラーレンへ、そして2006年にレッドブルへ移籍して現在に至る。ニューウェイはチーム・プリンシパルのクリスチャン・ホーナー、そして若きセバスチャン・ベッテルと共に4年連続でレッドブルにワールドチャンピオンをもたらした。ルドルフ・ウーレンハウト1950年代のF1を席巻したメルセデス“シルバーアロー”の設計者ロンドンに生まれたルドルフ・ウーレンハウトはドイツの大学で学んだ後にメルセデスへ入社し、入社5年目には早くもメルセデスのレース車両開発部門の責任者にまで登り詰めた俊才だった。彼は、「初代シルバーアロー」として知られるW25(1934年)、そして戦前GP史における最強のレーシングカーと謳われた名車W125(1937年)の生みの親として知られる。第二次世界大戦終結後、ウーレンハウトはメッサーシュミット戦闘機の燃料噴射装置を流用したW196Rでチャンピオンシップを席巻。モンツァやシルバーストンなどの高速サーキットでは4輪をすっぽりと覆う「ストリームライナー」と呼ばれるフルカウル・ボディを採用(当時のレギュレーションでは有効であった)したW196Rは、ファン・マヌエル・ファンジオに1954年および1955年のチャンピオンシップ2連覇をもたらした。関連:F1史に名を残すトップデザイナー Part 1