F1のレース中、ドライバーが発する無線メッセージは世界中に放送され、感情むき出しの瞬間がそのまま届けられる。しかし、その裏では「何を流すか」「何を隠すか」をめぐる精密な判断と編集作業が行われている。F1の放送・メディアディレクターであるディーン・ロック氏が、その検閲プロセスと編集方針の実際を明かした。ミュート処理、ピー音、文脈判断──FOMがどのようにして“ドラマ”と“公平性”を両立させているのか、その舞台裏に迫る。
全マシンの無線をFOMが完全把握F1は長年にわたり、ドライバーの無線通信にアクセスしてきた。「もしマシンがコース上にいるなら、そのマシンの無線を我々は持っており、アクセスできる」とロックは説明する。「暗号化されていたり、聞けなかったりする時代はもう終わった。その無線は外に出ているんだ」。フォーミュラ・ワン・マネジメント(FOM)にとって、放送中にドライバーのほぼリアルタイムの発言を流せることは、他のスポーツにはない強みだ。「僕の知り合いにゴルフを担当している人がいるんだけど」とロックは話す。「彼はこう言うんだ。『僕はゴルファーを5時間追いかけても何も得られない。でも君たちのアスリートは、時速200マイルのコクピットの中でヘルメットをかぶって走っていて、そこで感情が丸ごと伝わってくるじゃないか』とね」。検閲はどのように行われているのかしかしロックが認めるように、競技中の選手にここまで密接にアクセスできるということは、一定の責任を伴う。そのためF1は、いくつかの無線メッセージを“検閲”あるいは“非表示”にする仕組みを備えている。つまり、ミュート機能だ。この検閲は2通りの方法で行われる。F1はドライバーの無線通信を2種類の場面で放送している。ひとつはF1 TVなどで個々のドライバーを追跡できるオンボードチャンネル。もうひとつは、世界共通のテレビフィードで流される放送だ。後者では、音声クリップやテキストボックス、あるいはその両方を使って無線が流される。オンボードチャンネルが導入されたのは2018年と比較的最近のことだ。ドライバーの発言は数秒の遅延を伴って送信され、この遅延によって、放送ディレクターは“放送したくない”内容をミュートする余地を持つ。ドライバーを守るための“ミュート”ロックはこう説明する。「そこには責任があるんだ。理論上、ライブのオンボード映像を通じて個々のドライバーの無線を聴ける。でも、ドライバーが後悔するようなことを言ってしまう場合もあるから、少し彼らを守る必要がある。そのために、ミュートや“ピー音”を使う機能があるんだ」。実際には、オンボードチャンネルで“ピー音”が聞こえることはほとんどない。放送ディレクターがメッセージを非表示にする場合、一般的には音声をミュートする。たとえば、前戦メキシコGPでフェルナンド・アロンソがレースコントロールに激怒した際、彼の無線の一部がミュートされていた。アロンソ:「もし我々がポジションを取り戻せないなら、彼らはレースというものを何も理解していないってことだ。そんなのあり得ない。絶対にあり得ない。」ヴィザード(エンジニア):「フェルナンド、すべて理解している。彼らは調査中だ。オーケー、確認済みだ。」アロンソ:「君が最善を尽くしているのはわかってる。でも彼らが僕らの無線を全部放送してるのはおかしい。プライベートの会話なのに。これを放送してくれれば、第1・第2コーナーの状況が見えるはずだ。ハロー?」ヴィザード:「無線をチェックしてくれ。今は問題ない。」アロンソ:「オーケー、ラジオチェック。ラジオチェック。第1・第2コーナーの件、放送されなかったのか?」ドライバーのメッセージがこのようにミュートされると、その内容は明らかにならないこともある。アロンソの発言は、翌日にFOMが公開した映像でようやく明らかになった。“ピー音”を使う判断とその例外クラッシュ発生時など、ドライバーが負傷している可能性がある場合にも無線は非表示にされる。一方で、罵り言葉を含む発言がそのまま放送されることもある。たとえばシンガポールGPでルイス・ハミルトンがコーナーをカットしてフィニッシュした際のアロンソの無線だ。アロンソ:「チェッカーフラッグを受けた。ハミルトンの後ろで。」「ファッキング・ヘル、信じられないよ。」ヴィザード:「ああ、彼は分かってた。」アロンソ:「信じられない、信じられない!本当に信じられない。信じられない。ブレーキが壊れてても走っていいのか?彼は……」ヴィザード:「ああ、いや、確認してる。我々も同意だ。トラックリミットも確認中だ。彼は余裕を取りすぎた。ランスイッチ・ウォームアップだ、ランスイッチ・ウォームアップ。結果はP8だから、よくリカバリーした。」アロンソ:「でもこれはP7であるべきだ。そんな走り方は……」ヴィザード:「ああ、そうかもしれない。」アロンソ:「まるで自分一人しか走っていないかのような走りだ。昨日は赤旗を無視、今日は自由に走行。少しやりすぎだ。」FOMが語る「無線を物語にする力」放送ディレクターは、20台のマシンから送られてくる膨大な無線の中から、どのメッセージを世界放送で流すかを選ぶ。選ばれたメッセージの中で罵り言葉などがあれば“ピー音”が入る。場合によっては“ピー音”だけで構成されることもある。こうした演出は、FOMが統括する放送ディレクションの一部だ。英語で行われる無線通信を、各国の放送仕様に合わせて編集・補足・字幕化する必要があるためである。FOMは「レースの物語を伝えるために」無線を選定している。「世界フィードでは事情が少し違う」とロックは言う。「より多くの視聴者を相手に放送しているからだ」。「文脈が大切だ。15秒ほどの遅延があるから、クリップが流れている最中に新しい音声が届くこともある。その間に効果音を下げ、無線音声を上げ、必要ならピー音を入れ、編集判断をする。つまり『この無線は文脈に合っているか?』を確認するんだ」。感情と文脈、そして公平性のバランスF1が“感情的な無線ばかり選んでいる”と批判されることもあるが、ロックは否定する。「あるとき僕が問題にしたクリップがあった。それは罵り言葉の方が内容より多かった。『これじゃ物語ではなく、単なる煽りだ』と思ったね」と話す。FOMは、無線を重要なストーリーテリングの手段と見ている。「たとえば2人のチームメイトがチームを通してやり取りしているとき、その無線がなければ何が起きているか理解できない」とロックは言う。「無線は編集の流れを支えるものだ。2台の間で何が起きているのか、バトルの裏でどんなやり...