2022年のF1日本GPがいよいよ開幕!3年ぶりのF1カレンダー復帰を果たす鈴鹿サーキットにまつわるトリビアを紹介する。F1ドライバーたちをはじめとする誰もが鈴鹿サーキットのカレンダー復帰を喜んでいる。1960年代初頭の建造以来、鈴鹿サーキットは素晴らしい歴史を築いてきた。常識? 初耳? レッドブルが、この伝説的サーキットに関する知られざるトリビアを紹介した。
1.鈴鹿サーキットはホンダの出資で作られた本田技研工業は1948年に創業し、1950年代後半になると創業者本田宗一郎は三重県内に常設テストコースの建設を決定した。コース設計はオランダ人のジョン・フーゲンホルツが手がけ、ユニークな8の字型レイアウトを特徴としていた。鈴鹿では1964年と1965年に第1回・第2回日本グランプリが開催されたが、これらはF1ではなくスポーツカーレースで、日本グランプリの名称はその後フォーミュラリブレでも使用された。鈴鹿は1987シーズンに初めてF1カレンダーに加わり、富士スピードウェイで日本GPが開催された2シーズンとCOVID-19によって開催が中止された過去2シーズンを除いてF1カレンダーの常連となっている。2.日本GPはホンダ(鈴鹿)とトヨタ(富士)の交互開催が予定されていた2007シーズンと2008シーズンの日本GPは、トヨタ自動車が所有する富士スピードウェイで開催された。鈴鹿と同じく1960年代に建造され、1976シーズンと1977シーズンのF1開催実績を持っていた富士スピードウェイは2000年にトヨタ傘下となったことで、ヘルマン・ティルケにコース改修を要請した。そして、それまで20年間鈴鹿で開催されてきた日本GPは富士で2シーズン開催されることになり、2009シーズン以降は富士と鈴鹿の間で交互開催される予定になっていた。しかし2009年7月、富士が当時の世界的な金融危機を理由に日本GP開催を白紙撤回したため、日本GPは鈴鹿サーキットでの単独開催に戻ることになった。3.日本GPで優勝した日本人ドライバーはまだいないF1日本GPは過去35回開催されており、22人の日本人ドライバーがF1参戦を果たしてきたが、日本GPで優勝を飾った日本人ドライバーはまだいない。日本GPにおける日本人ドライバー歴代最上位は3位で、鈴木亜久里(ラルース / ローラ)が1990シーズン、小林可夢偉(ザウバー)が2012シーズンに母国表彰台を獲得している。今シーズンは角田裕毅が初めての母国レースを迎えるため、2014シーズンの小林以来に日本人ドライバーが鈴鹿を走ることになる。4.オリジナルレイアウトには立体交差が3つあった鈴鹿は8の字型レイアウトが名物で、コース上に立体交差を備えているF1カレンダー唯一のサーキットだ(アブダビのピットレーンはメインストレート下をくぐっているが、本コース同士が立体交差しているサーキットは鈴鹿だけ)。しかし、さらに興味深いのは、ジョン・フーゲンホルツのオリジナルレイアウトでは立体交差が3つもあったという事実だ。1つめの立体交差はターン1の直後、2つめはターン1のその少し先に置かれ、連続するタイトなコーナーを経て戻るようになっていた。そして3つめは現在とほぼ同じ位置に配置されていた。5.デグナーカーブにまつわる逸話鈴鹿のコースマップを眺めると、コース全体の流れの中でデグナーカーブが少し突飛に思えるはずだ。これは、1980年代のF1招致に向けてひとつの高速コーナーだったデグナーが改修されたことが原因だ。このコーナー名称は、ドイツ人ライダーのエルンスト・デグナーにちなんでいる。東ドイツ出身のデグナーはキャリア初期を母国メーカーのMZで過ごしていたが、1961年にスズキの助力で西側へ亡命。尚、このときにスズキのエンジニア側にMZの技術情報が流出したとされている。そして翌1962シーズン、デグナーはスズキで125ccワールドタイトルを獲得したが、鈴鹿で転倒したデグナーは深刻な火傷を負ってしまった。鈴鹿はホンダが所有するサーキットだが、スズキのレジェンドライダーに敬意を表してそのコーナーにデグナーの名が冠された。
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