1992年にF1参戦を試みたアンドレア・モーダ。その悪名高い運営の中でも、特に衝撃的な出来事がペリー・マッカーシーを襲った。1990年代初頭のF1は興味深い時代だった。アイルトン・セナとアラン・プロストの衝突劇や、ナイジェル・マンセルの引退とウィリアムズへの復帰が注目を集める一方で、金鉱を掘り当てようとする小規模チームが乱立していた。ジョーダンやザウバーのように生き残るチームもあったが、多くは姿を消した。
その中に、今日ならFIAが申請段階で却下するであろうイタリアのチーム、アンドレア・モーダがあった。このチームはコローニの残骸から生まれ、イタリアの実業家アンドレア・サセッティが1990年にBMWの中止されたプロジェクト用に設計されたシャシーを入手。背後にジャッドV10を積み込み、開幕戦の南アフリカへと運んだ。ここから“喜劇”が始まった。アンドレア・モーダは新規参戦チームのための10万ドルの保証金を支払っていなかったため参戦を許可されなかった。サセッティは「コローニの名前を変えただけ」と主張したが、訴えは却下され、週末の出走は禁じられた。第2戦ブラジルではロベルト・モレノとイギリス人のペリー・マッカーシーのラインアップとなった。マッカーシーはF1参戦のために危険を冒してきたドライバーだった。しかしスーパーライセンスは当初下りず、第4戦スペインでようやく走行許可が与えられた。ここから悲劇的な道のりが始まる。F1への道「長年F1の周りにいて、ノックを続けてきた。F1に上がりたいと言ってくれる人は多かったが、必ず“資金を持ってこい”と言われた。僕にはそれがなかった」とマッカーシーはRacingNews365に語る。「実力は分かってもらえていたと思うけど、チャンスを見つけるしかなかったんだ」だが資金不足は彼のキャリアを潰しかけた。モナコ直前、チームから外されたエンリコ・ベルタージアが100万ドルのスポンサー資金を持ち込んだため、サセッティはマッカーシーを切ろうとした。しかしシーズン内で4人以上のドライバー交代は禁止されていたため、FIAが介入。資金は流れ、マッカーシーは干される形になった。モナコの予備予選で彼に与えられたのは1周のみ。その結果、記録したタイムは「17分05秒924」。今なおF1史上最も遅いラップタイムである。「モナコを歩いた方が速かった」と彼は振り返る。「初めてのコース、合わないシート、風防なし、たわむステアリングラック。アンドレア・モーダでも加速は速いから、必死に突っ込んで行った。怖かったが引けなかった。僕がやってきた努力を無駄にしたくなかった。でも何をやっても無意味だった。ミッキーマウスの方がマシに思えるほどだった」どん底その後も各地を転戦し、フランスでは「出走せず」と記録された。だが決定的な出来事はベルギーGPで起きた。チームが意図的にマッカーシーを危険に晒したのだ。「スパでチームを去ると決めたのは理由があった。これまでは未熟さや資金不足だったが、スパでは欠陥のあるステアリングラックを取り付けられた」とマッカーシーは語る。「ウォームアップを飛ばして予選に臨んだが、オー・ルージュでハンドルが固まり、すぐに異常を察知してブレーキを踏んだ。だが速度はほとんど落とせず、壁に突っ込む寸前だった。ピットに戻り“ステアリングラックがたわんでいる”と伝えると、彼らは“知ってる”と言ったんだ」「何だって? と聞いたら“ロベルトの車で先週テストした”と。つまりそれを僕に使ったんだ」「これまでも危険な目には遭ってきたけど、これは度が過ぎていた。ジャーナリストのトニー・ドジンズにも“ペリー、嫌な予感がする、車に乗るな”と止められた。だが僕には選択肢がなかった」なぜそこまで?幸いなことに、アンドレア・モーダはスパのパドックでサセッティが逮捕されたことをきっかけにF1から追放された。マッカーシーにとってそれがF1キャリアの終焉となった。その後「Top Gear」で“覆面ドライバー”として知られるようになるが、資金不足のためF1に戻ることはできなかった。「油田で1日15〜18時間、週7日働いて資金を貯めた。必死でたどり着いたんだ」とマッカーシーは言う。「ティレルに行けそうだったこともあったがジャン・アレジに取られた。レイトンハウスでも資金が必要だった。フットワークにも行きたかった」ではなぜ、準備不足で無様なチームに加わったのか? 答えは単純だ。「30歳近くになっていて、F1のチャンスが来た。すべての努力が報われると思った。だが僕が飛び込んだのは前代未聞のサーカスだった」