セバスチャン・ベッテルのフェラーリ離脱、カルロス・サインツのマクラーレンからフェラーリ移籍、ダニエル・リカルドのルノーからマクラーレンへの移籍と過去数日で2021年のドライバー市場は大きな動きをみせた。昨年、キミ・ライコネンのザウバー移籍はF1界を揺るがすビッグニュースとなった。ライコネンと同じく予想外のチーム移籍をしたドライバーたちを振り返ってみよう。
マクラーレン、ロータス、フェラーリの3チームでF1通算20勝を記録している2007年ワールドチャンピオンで、その無愛想なキャラクターからあらゆるF1ファンのハートを掴んでいる人気者でもあるキミ・ライコネンのF1キャリアは、2001年シーズン、小規模なチームザウバーから始まった。ライコネンがザウバーをドライブしたのはこの1年シーズンのみだったが、彼は素晴らしいリザルトの数々で周囲に強い印象を与え、翌年には当時最強チームのひとつだったマクラーレンに引き抜かれた。そしてそれから約17年が経った2018年9月、イタリアGP直後にフェラーリが来季からライコネンに代えて若きモナコ人ドライバー、シャルル・ルクレールの起用を発表すると、多くがライコネンのF1引退を予想した。しかし、ライコネンはF1デビューとブレイクのチャンスを与えてくれた古巣ザウバーに復帰することを発表し、F1界に驚きをもたらした。今回は、ライコネンと同じように予想外の移籍を決断してファンやメディアを驚かせた5人のレジェンドドライバーの足跡を振り返ろう。1. デイモン・ヒル - 最強ウィリアムズから弱小アロウズへ結果だけを見れば、F1 の1996年シーズンはおとぎ話そのものだった。デイモン・ヒルがミハエル・シューマッハに苦渋を嘗めさせられ続けたタフな2年間を経て亡父グレアムに追いつき、史上初の親子F1ワールドチャンピオンになったのだ。しかし、実情はおとぎ話とは程遠かった。チャンピオンを目指して戦っていた1996年シーズン中盤、ヒルはすでにウィリアムズから見切りをつけられていた。したがって、彼が1997年シーズンを新チームで迎えることは想定内だったのだが、移籍先に万年テールエンダーだったアロウズを選んだのは想定外だった。20年以上に渡りF1参戦を続けていたアロウズだが、GP優勝はゼロだった。当然、アロウズ移籍後のヒルは中団争いに甘んじる年シーズンを送ることになったが、ハンガリーGPでは決勝2位を記録した。尚、この日のヒルは、ファイナルラップで原因不明のメカニカルトラブルに見舞われてウィリアムズのジャック・ヴィルヌーブに優勝を譲るまで、Yamahaエンジンを搭載したアロウズのマシンで堂々とトップを快走していた。2. フェリペ・マッサ - 引退撤回花束を渡され、涙を拭きながら同僚たちに別れを告げて会社をあとにしたはずなのに、翌日に何もなかったかのようにオフィスへ戻る - F1でも全く同じ出来事があった。2016年シーズン限りでのF1引退を発表していたフェリペ・マッサ(当時ウィリアムズ)にとって、母国ブラジルGP以上に15年シーズン・通算11勝のキャリアを終える舞台に相応しい場所はなかった。そのブラジルGPをマッサは決勝47周目リタイアで終えたのだが、全チームとドライバーがピットレーンに花道を作って偉大なドライバーの引退を祝し、インテルラゴス・サーキットに感涙必至のシーンが展開された。しかし、その涙も乾ききらない2カ月後の2017年1月、当初ウィリアムズに残留するはずだったバルテリ・ボッタスがメルセデスへ引き抜かれた結果、マッサはウィリアムズに請われてもう1年チームに留まることになった。何が起きるか分からないF1の世界のクレイジーさを象徴する出来事だった。3. ナイジェル・マンセル - ウィリアムズで復帰するもマクラーレンには “フィット” できずやや退屈な男として不当に残念な扱いを受けることがある1992年シーズンのワールドチャンピオン、ナイジェル・マンセル。彼は、ニュースヘッドライン級のドラマを生み出すことにかけてはちょっとしたダークホース的存在だった。遡ること1990年シーズン中盤、アラン・プロストとのフェラーリ内での主導権争いに敗れたマンセルはF1からの引退を発表したが、フランク・ウィリアムズから数百万ドルと言われる高額オファーを受けてウィリアムズから復帰した。古巣ウィリアムズに舞い戻ったマンセルは1992年シーズンのタイトルを獲得して悲願を達成すると、1993年シーズンからのインディカー転向を発表してF1界を驚かせた。Newman/Haasチームで1993年シーズンのインディカー(当時のシリーズ名称はチャンプカー・ワールドシリーズ)に参戦したマンセルは、センセーショナルなことに挑戦初年度でチャンピオンを獲得した。マンセルにはまだ多くのドラマがある…。1994年シーズン、マンセルはインディから急遽身を引き、アイルトン・セナを喪ったウィリアムズのために代役としてF1復帰を果たし、その年シーズン最終戦オーストラリアGP(アデレード)で思い出深い優勝を飾る。そして間もなく、マンセルは1995年シーズンからマクラーレンでフル年シーズン復帰することを発表した。その1995年シーズンのマクラーレンのマシンの仕上がりは、最大級褒めたとしても “ちょっとした悪夢” だったのだが、図らずも、マンセルはこの悪夢に喜劇性を加えることになる。MP4/10のコックピットに対し、“我らがナイジ” の身体がいささか大きすぎることがプレ年シーズンテストの段階で判明し、幅広モノコックが新たに製造されるまで彼は開幕2戦を欠場する羽目になってしまった。4. エマーソン・フィッティパルディ - 愛国心が招いたキャリア選択ミスエマーソン・フィッティパルディは1970年代を代表するドライバーのひとりで、アイコニックなウェッジシェイプ型のブラック&ゴールドを纏ったロータス 72とマクラーレン M23を駆り、合計2回のドライバーズチャンピオンを獲得した。1975年シーズン、3度目のタイトル獲得を僅差で逃しながら、尚もドライバーとして絶頂期にあったフィッティパルディはマクラーレンを離脱し、母国ブラジルの巨大企業Copersucarが支援する、実弟ウィルソン率いるFittipaldi Automotiveへの移籍を決断する。フィッティパルディの母国愛と兄弟愛はしかし、彼に愛を返さなかった。彼は競争力に劣るマシンで苦しい5年シーズンを過ごし、結果として1度も優勝を飾れずに33歳の若さでF1から去った。5. ジャック・ヴィルヌーブ - 時代の寵児から凡庸への転落あの伝説的ドライバー、故ジル・ヴィルヌーブの忘れ形見ジャック・ヴィルヌーブ。ブリーチしたブロン...
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