アイルトン・セナは1992年にウィリアムズと契約を結ぶ準備ができていたが、ホンダに対する忠誠心のためにマクラーレンにとどまった。1992年のF1世界選手権では、ナイジェル・マンセルが当時の最強マシン『FW14B』で悲願のF1ワールドチャンピオンを獲得した。だが、マネージャーを務めていたジュリアン・ジャコビは、土壇場でのセナの心変わりがなければ、1992年にマンセルはウィリアムズをドライブしていなかったと語る。
アイルトン・セナは、1988年、1990年、そして、1991年にマクラーレン・ホンダでF1ワールドチャンピオンを獲得した。しかし、1991年にエイドリアン・ニューウェイが加入し、ルノーのターボエンジンにセミオートマティックトランスミッションを備えたウィリアムズ FW14はマクラーレン・ホンダに対してトータルでは優れたパフォーマンスを発揮していた。1992年にアイルトン・セナがウィリアムズに加入することは理にかなっているように見えたが、ジュリアン・ジャコビは、アイルトン・セナのホンダF1への忠誠心によってそれは実現しなかったと明かす。ジュリアン・ジャコビは、運命の分かれ目となった1991年のF1ベルギーGPについて Beyond The Grid に語った。彼はマクラーレンとウィリアムズの2つの契約書をブリーフケースに忍ばせてサーキットに向かっていた。「アイルトンはウィリアムズに行きたかったが、彼はホンダF1に忠実だった」と現在はセルジオ・ペレスのマネージャーを務めているジュリアン・ジャコビは言った。「彼の基本的な本能はもっと早くにウィリアムズに行くことだったが、彼は特にホンダの社長であった川本(信彦)氏に特に忠実だった。基本的に自分たちとアイルトンを1988年にマクラーレンに連れてきたのはホンダだったであり、彼らは共に3つのチャンピオンシップを獲得していたので非常に親しかった」「だが、彼が3回目のチャンピオンを獲得した1991年の後半でさえ、アイルトンは以前のホンダではないと本能的に感ていたし、将来について心配していた」「1991年に、アイルトンのために2つの契約書を抱えてスパに向かったことを覚えている。1つはマクラーレン、もう1つはウィリアムズとの契約書だった。アイルトン自身は自分がウィリアムズに行くであることを知っていたし、我々は両方の契約書に署名する準備ができていた。私は日曜日の朝に彼がウィリアムズの契約書にサインするだろうと考えていた」「だが、彼は日本で夜通し川本氏と話をして、日曜日の朝に来て『もう一年残留する』と言った。それで彼は92年もマクラーレンに残留した」「だが、彼は92年にウィリアムズに行っていた可能性があったし、そうなれば、ナイジェルはそこにいなかっただろう。マンセルがチャンピオンシップを獲得した年だ。だが、アイルトンが手を引いたことで、マンセルはとどまった…」ホンダは1992年末でF1から撤退することを決定。マクラーレンはその後フォードエンジンに切り替えた。アイルトン・セナはこの動きに“精神的にひどく落ち込んでいた”とジュリアン・ジャコビは明かし、前年のアラン・プロストと同じように1993年にF1活動を1年休止することを検討していたという。「ホンダはF1撤退を決めたが、彼らがアイルトンに伝えたのは3か月前だったと思う。ロン(デニス/マクラーレン代表)よりも先に伝えていた。彼は精神的にひどく落ち込んでいた」「我々は1993年のために別のシートを見つけなければならなかった。彼が1993年にドライブしないことにどれくらい近づいていたか? かなり近づいていたというのが答えだ」1993年までマクラーレンに残留したアイルトン・セナは1994年にウィリアムズに移籍。しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテクはこの年のルール変更により禁止され、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイが空力を重視した新車FW16は非常に神経質なマシンに仕上がっていた。そして、1994年5月1日。第3戦サンマリノGPでアイルトン・セナは後に悲劇的な事故死を遂げることなった。